続・番頭一代/たかはし たみを
『津村信夫の千曲川碑』<10>(10年3月15日付)
露伴先生の奥さん八代さんについては昭和36年に短歌誌「白夜」に「露伴と、その後妻八代」の文章が3回にわたって掲載されている。
そして、昭和40年には「信州における露伴」が数回続けて掲載されている。
筆者は「白夜短歌会」の幹部同人小川静子さんである。小川さんは八代夫人の姪御さんで小諸の大庄屋小山家から上水内郡牟礼村の小川家に嫁がれた方である。
太田水穂先生、四賀光子先生の「潮音」で短歌を学ばれ、歌集「うすずみ桜」を刊行されている。
露伴先生や八代夫人、文(あや)さん、青木玉さんを、親しく知っていらっしゃる唯一人の貴重な存在である。 私は露伴翁が八代夫人の療養の為に建てた戸倉温泉の千曲川畔の家に七年間住んでいただけの僅かな御縁で、老朽化し、近い中に取り壊されてしまう「露伴別荘」と、ゆかりの人々を「自分史」に書いておきたいと思っているのである。
「白夜歌人会」の代表者疋田和男氏は「溯行」の執筆者で創刊以来毎号、透徹した歌人の眼で、すぐれた評論を発表しておられるのは、私が云うまでもなく読者の皆様がよく知っていらっしゃる事だが、今回、この雑文を書くのに大変お世話になった。厚く御礼申し上げる次第である。
(評論誌「溯行」2004・124号より)
〈了〉
『津村信夫の千曲川碑』<9>(10年3月5日付)
(橋本画伯略年譜つづき)
一九五二年昭和27年 脳軟化症のため倒れるが一時、回復に向かう。
一九五三年昭和28年1月7日 逝去。墓所「小平霊園」「橋本邦助と初期文展」図録 一九七八年編集 栃木県美術館B露伴別荘については、戸倉温泉の「小倉屋」さん坂井薫氏〈法政大卒、若い時「宝石」の懸賞推理小説に入選。現在は「朝日俳句」「NHK俳壇」などで活躍している俳人〉から「戦争中、食料の配給制度があり、露伴別荘は、戸倉温泉の二班に入っていて、班長の上田館さんが、いろいろ親切にしてあげてたので、終戦になって、露伴別荘の住人が東京へ引き上げる時、上田館へ御礼の挨拶に来られたと、上田館の西沢一郎さん〈前社長〉から聞いた」と電話をくださった。
班長をしていたのは、一郎氏の御尊父正隆氏。
その後、上田館さんの現社長西沢隆一氏に戸倉から上田へ行く「しなの鉄道」の車中でお会いしたとき、お聞きしたら「神保さん〈坂井銘醸(株)部長〉からも聞かれたけど、露伴先生の御礼状が額になっていて、昔の上田館の館内に飾られていたのを見た」と、おっしゃっていた。
ただ、現在、その額がどこに保管されているのか、聞きそこなってしまったが―いずれにしても戦争中、露伴先生御自身か御家族の方、もしくは、その関係者が「露伴別荘」に住んでおられたのは、事実であろうと思う。
昔の話なので、証明される写真でもあればいいのだがと、思っているのである。
〈つづく〉
『津村信夫の千曲川碑』<8>(10年2月25日付)
(橋本画伯略年譜つづき)
一九二五年大正14年 震災で消失した帝国議事堂の歴代議長の肖像画を新たに制作することとなり橋本邦助に「星亨」の肖像を依嘱する。
一九三一年昭和6年10月 25周年記念第12回帝展に「店頭風景」「海の幸」〈無鑑査〉出品。
一九三五年昭和10年11月 改組「帝展規則第40条第1号により今後2回無鑑査」となる。
一九三八年昭和13年 第2回文展に「大王 の一角」〈無鑑査〉出品
一九四〇年昭和15年 上海の日本人租界において日動画廊主催による上海画廊設立記念「現代大家洋画大展覧会」〈日本人クラブ大ホール〉が開催され、石井柏亭、林倭衛、東郷青児、岡田謙三らとともに出品される。
一九四三年昭和18年2月 明治美術名作大展示会〈東京市、朝日新聞社主催〉が開催され「幕間」が出品される。
一九四四年昭和19年 空襲を避けて妻とともに長野県上山田温泉に疎開。
一九四五年昭和20年 空襲により曙町の自宅を焼失。
一九四七年昭和22年 この頃疎開地の上山田温泉で画会を催したり後進の指導をしたりする。
一九五一年昭和26年 上山田温泉を引きあげ文京区曙町に戻る。
〈つづく〉
『津村信夫の千曲川碑』<7>(10年1月25日付)
(橋本画伯略年譜つづき)
一九〇八年明治41年10月 第2回文展「水のほとり」3等賞。この頃より博文館等の雑誌社から挿絵や口絵の依頼が多くなる。
一九〇九年明治42年 第3回文展「幕間」3等賞。この絵は「歌舞伎座」に展示された。「風の海」は宮内省お買い上げとなる。
一九一〇年明治43年4月27日 横浜港を出発し渡欧の途につく。久米桂一郎、菊地鋳太郎、三宅克己らと。6月17日 パリ到着「アカデミージュリアン」で学ぶ。
一九一一年明治44年2月 画報社より「邦助画集」「木版挿絵集」を発行。7月 フランスより帰国 一時、栃木町へ帰郷。
一九一二年明治45年大正元年6月 光風会第一回展 中沢弘光、山本森之助、三宅克己らと出品。7月 小島烏水著「日本アルプス」の表紙絵を描く。「巴里絵日記」〈博文館〉を刊行。
一九一三年大正2年 岡田三郎助夫妻の媒酌により足利の萩野万太郎の長女勢〈一八九三年生れ〉と結婚する。10月 第7回文展日本画部第二科に「落葉掻き」「夕月」を出品する。
一九一五年大正4年 府下豊島郡巣鴨町に住む。
一九一七年大正6年 第11回文展日本画部に「菊花の秋」〈二曲一双屏風〉を出品。宮内省お買上げとなる。
一九一八年大正7年 下谷区上野花園町に住む。
一九二三年大正12年 再びフランスに渡る。一九二四年大正13年 フランスより帰国。
〈つづく〉
『津村信夫の千曲川碑』<6>(10年1月15日付)
豊城一夫さんの軍隊時代の友人の弟さんが「歌謡曲の大御所」作曲家の船村徹先生〈日本音楽著作権協会会長〉で、橋本先生(橋本邦助画伯)の出身地栃木市の隣り町の方なので、絵に関心は持たれているらしいともお聞きした。
これまた、余談になるのだが、一夫氏の弟さんの謙一氏は落語家の林家三平御夫妻と仲が良くて、香葉子さんの随筆に登場しているそうだ。
豊城家の人たちは、人情深い面倒見のいい人たちなのだ。末弟の麟太郎氏は、戸倉町長を4期務めた方で「日曜画家」でもあった。
私は、橋本先生が栃木市へ疎開されずに、信州へ来られたのは、何故だろう、どんな御縁があったのか、気になっているのだが、それはまだ分らない。
それと同じように、わたしの父(高橋竹迷和尚)と橋本先生が、どこで知りあったのか、誰か、共通の友人がいたのか―そのへんもさっぱり判らない。
橋本邦助画伯略年譜
一八八四年明治13年1月2日 栃木県栃木町〈現栃木市〉の江戸時代から続く紙商「紙五」の家に生まれる。
一九〇〇年明治33年 県立栃木中学二年級修了。上京して白馬会溜池研究所に学ぶ
一九〇一年明治34年 東京美術学校西洋画科選科に入学。
一九〇三年明治36年 東京美術学校西洋画科選科卒業。熊谷守一、和田三造、辻永、柳敬助らと下谷区入谷に家を借り共同、自炊の画学生生活を送る。
一九〇四年明治37年 報知新聞社に絵画担当として入社。
一九〇五年明治38年9月 辻永と共著で「洋画一班」を刊行する。
一九〇六年明治39年 日本絵葉書編集の「絵葉書集、橋本邦助」〈博文館〉が刊行される。
一九〇七年明治40年3月 東京府勧業博覧会が開催され「風景」が2等賞になる。10月 第一回文展「ともしび」3等賞。
一九〇八年明治41年7月 東京市本郷区森川町に画室を新築。
〈つづく〉
『津村信夫の千曲川碑』<5>(10年1月5日付)
橋本先生が戦火を避けて戸倉上山田温泉に疎開されたのは、昭和19年である。前号で滝沢了先生〈泉理髪店オーナーで歌人〉、鍋太金物店の今井史人氏〈前千曲市議会議員〉のお話を紹介しておいたが今回は、豊城一夫氏にお聞きしたお話をお伝えしたい。
豊城一夫氏は、読売新聞や日本テレビの記者、カメラマンとして活躍された方で、現在83歳(2004年当時)。
戸倉上山田温泉の八王子山の中腹にある喫茶店「ノナ」のオーナーである。
昔の、更級郡更級村の有力者、豊城道夫氏の御長男である。橋本先生は、上山田温泉の通称「思い出の町」にあった「初音」の2階に疎開されていたのだが、絵を描くスペースもなかったらしい。
豊城さんの御母堂が絵を愛する方で、橋本先生のお人柄にも惹かれて、親身になってお世話をし、豊城さんが経営していた八王子温泉の「大湯」の近くにあった、小さいけれど2階建ての一軒家をアトリエに提供したり、その後、家を新築して差し上げたのだが、先生は遠慮して、あまり使われなかったそうだ。
豊城さんの記憶には、信玄袋のような袋をブラ下げて、アトリエに通ってきた先生の姿が焼き付いていると云っていた。
喫茶店「ノナ」には、「更級村」の10号位の油絵の風景画が飾られているだけだが、豊城さんの家の方には、何点かの大作が所蔵されていると、お聞きした。
文展か帝展に出品した「畳一枚」の大きな油絵は「大沼だか小沼の秋」と題名がついているそうだ。
日本画の作品は「二曲一双の屏風」があり「葵の花」を描いたものだと云う。
また、先生の友人数人が遊びに来て、似顔絵や花などを描いた「寄せ書き」もあるが、「石井柏亭」の署名は判るが、他の人の名前は判らないそうだ。
先生が、描いた下絵やデッサンも、大切に保存してあるとおっしゃっていたが、「公開展示してください」とお願いをしておいた。
『津村信夫の千曲川碑』<4>(09年12月15日付)
余談になるが、里野氏の御子息はパリで修行をしてきたフランス料理の名手であり、私たち「溯行」のお仲間の石川利江氏が、長野市大門町の旧長野市物産館の重厚で温かい感じのレンガ造りの建物を活用して経営されている、レストランのシェフをなさっている。
また、「ロッヂタンネ」では、四季折々「フランス料理と音楽の夕べ」を催しておられるが、そのコンサートに出演しているジャズピアニストの唐沢淑郎氏は、私と同じ年月日生れの親友である。
いつもは、千曲市稲荷山のコーヒーの店「風雅」のマスターで、人柄がいいので信頼があり、飲食店組合長として忙しい日々を送っている。
A橋本邦助画伯については、一般の人たちには知られていないのか、「橋本雅邦の息子さんですか」と、質問をされた。
明治40年の東京府の勧業博覧会で、橋本先生の作品「風景」が二等賞になり〈一等賞はなかった〉、三等にあの有名な青木繁の「わだつみのうろこの宮」が入っていたのだと説明すると、初めて興味を示す人が多い。
橋本画伯の事蹟を詳しく知りたいと電話もあったので、先生の出身地である宇都宮市にある栃木県立美術館の竹山先生に御照会をしたところ、「一九七八年に「橋本邦助と初期文展」と題して、特別展を開催した時に制作した図録の在庫が無いので」と、お手紙をいただき、先生の、「略年譜」のコピーを送って下さった。
『津村信夫の千曲川碑』<3>(09年12月5日付)
出席者の中に、津村信夫の研究者の方もおられて、「千曲川」碑の前面下部に、はめこまれている「略歴」の中に津村信夫氏の友人の詩人「立原道造」の名前が「立木」と彫られていると、誤りを指摘されたのは、残念であり恥ずかしかった。
それと、もう一つ昌子未亡人を悲しませた出来事があった。未亡人に無断で、「千曲川」の詩文を筆字で書いた「おみやげ用の紙袋」が作られており使われていたのである。
私は「碑を建てたグループの旅館ではなくて、他の旅館が悪気があったのではなく、お祝いのつもりで作ったらしい」と苦しい云い訳をしたのだが―未亡人のお気持を傷つけたのを、後々まで申し訳ないと思っているのである。
除幕式には、私的な有志の催しだと思われていたのか、マスコミは取材に現れなかった。
その中で、松本の季刊「信州の旅」の藤田編集長がわざわざ取材に来てくださって、貴重な誌面に、写真入りで詳細に報道してくださったのは、本当に有難かった。
戸倉上山田温泉の旅館の人たちに「信州の旅」への広告出稿をお願いしたが、私が力の無いせいで実現せず、藤田氏の御好意に甘えてしまったのは、今でも心苦しく思っているのである。
昌子未亡人は、平成13年5月30日88歳でお亡くなりになった。お葬式に行けなかった私は、今年(平成16年)の5月、漸く多磨墓地に、奥様のお墓詣りに行ってきた。
広大な多磨墓地の特別区域、国家に貢献のあった貴顕紳士の眠る霊域である。津村家墓所は、8区2側5番地の一区画にある。
簡素な、実に清々しいお墓である。
津村信夫さんは昭和19年6月27日、36歳でお亡くなりになっている。
戒名は「浩然院湘山(ショウザン)清竹居士」 昌子夫人の戒名は「貞淑院慈宝妙昌大姉」である。
『津村信夫の千曲川碑』<2>(09年11月25日付)
私は、前回の失敗を、くり返さないように、当時長野市から発行されていた月刊誌「信濃路」の編集部長北沢晃子女史に事情を話して「助言」を求めた。
女史は顔が広く情報通であったので、「戸隠のことは、この人に聞くといいわよ」と云って、戸隠の宿坊「落合」の御主人、落合宏氏を紹介してくれた。
私は早速、一人で戸隠へ行った。落合氏は、若き日の学生運動の体験をペンネームで発表している進歩的文化人であるとお聞きしていたのだが、会ってみると、ソフトな物静かな、いかにも、歴史のある戸隠の宿坊の主(あるじ)であった。
落合氏は、戸隠に津村信夫文学碑を建てた時の、発起人の一人であり、中心になって活動した里野龍平氏を紹介してくださった。
私は、神保氏と二人で里野氏の「ロッジタンネ」をお訪ねした。第一印象は、関西弁の商売上手な方だと思ったのだが、お話をお聞きしていると、津村信夫と戸隠をこよなく愛している純粋な方だと判った。実に、こまかく、ざっくばらんに、建碑計画のすべてを教えてくださった。
私は、当時、蓼科高原の「清風園女神湖ホテル」の支配人をしていたので、神保氏や若い人たちと御一緒に活動出来なかったが―側面から、「応援」をしていたつもりだ。
神保氏たちが、鎌倉の津村昌子夫人の所へ「お願い」に行く前に、津村夫人にコンタクトを取っていただいたのは、当時軽井沢町役場の課長さんをしていた高橋勝氏である。
高橋氏は津村信夫の研究者であり、信濃毎日新聞紙上に、評論やエッセイを書いておられて、昌子夫人と面識があり信頼されている方であった。
私は、仕事先の軽井沢役場へ高橋氏をお訪ねして、御協力をお願いしたのである。
高橋氏は現在、町に在住し、「北国街道手をつなぐ会」の事務局長として、巾広い活動をされているとお聞きしている。
いろいろな方々の御好意をいただいて、神保氏たちの実際の活動もスムーズに進行して、戸倉上山田温泉の千曲川堤防上に「千曲川」碑が建立され、除幕式が行われたのは昭和59年6月24日である。
一番苦労をした神保氏が、感激して眼を真赤にしていたのが印象的であった。
『津村信夫の千曲川碑』<1>(09年11月15日付)
津村信夫さんの「千曲川」碑建立に関しては自画自賛になるのだが、戸倉上山田温泉の旅館の若旦那さんや商店の若い人たちの自発的な文化活動として、全国的に見ても、珍しい、素晴らしい事例だと思う。
普通、こうした計画は、町の予算や観光協会のバックアップ、特定のスポンサーがついて建設されるのが常識なのだが「千曲川碑」は、本当に有志の方々の手弁当と浄財によって建立されたのである。
私は、善光寺門前にあった民芸品店主横井洋一氏と津村信夫碑建立を計画して失敗したのだが、そのほろ苦い、反省の弁を神保和男氏〈当時、上山田温泉でお茶とお花のお店「富貴之園」店主。現在、坂井銘醸株式会社企画部長〉が聞いてくれて、「それは、とてもいい計画だから、何とかやりましょう」と云って、笹屋ホテルの坂井永一氏、上山田ホテルの若林正樹氏など旅館組合の青年部のメンバーに相談して動いてくれたのである。
ご愛読いただきました、たかはし たみを氏の連載『番頭一代』は本紙「更埴新聞」9月25日号をもって一応終了しました。
「母のこと」から「坂井みつさんへの手紙」まで、シリーズ全68回の連載は一冊の雑文集『番頭讃歌』(更埴新聞編集)として、このほど11月1日に出版されました。
続けて、今号から同著者の『続・番頭一代』を連載します。ご愛読をお願い申し上げます。
著者は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市在住で78歳。

津村信夫の「千曲川」碑
戸倉上山田温泉千曲河畔