老塵秘抄/たかはし たみを




『老塵秘抄』こぼれ話<4>(11年4月15日付)
 堤先生のスピーチの後は、東京から来てくれた伊藤文学氏が旧制世田谷中学の同級生として、昭和19年以来のツキアイを語ってくれた。
 彼は第二書房のオーナーであり、日本初のゲイ雑誌「薔薇(バラ)族」の編集長であり、新潟弥彦神社境内でフランス料理のレストランを経営していたのだが―現在は戦線を縮小して再起を計っているのである。
 日本の同性愛、モノセックスの理解者で、この人たちの社会的な地位の向上を目ざして、アメリカを始め各国の会議に日本を代表して出席しているし、TVや新聞で問題があると、専門家としての意見を求められているヘンな人物である。
 彼の家の玄関には三輪明宏氏からの贈りものが飾られている。昭和38年代には「ボクどうして涙が出るの」と云う心臓病の子供さんの記録を出版し、話題を集めたライターでもある。
 もう一人の落合清一氏(雅号・雅声)は小学校の後輩だが、扇面美術展の常連入賞作家である。流麗な書と淡彩だがセンスのいい挿絵を描いてくれるので、私のヘタな短歌が見事に変身して光彩を放つのは見事だと思う。
 ただ、肝心の女房殿は私と並んで座って、私の分のケーキまでペロリと平らげて、大きな花束を受け取って、ニコニコお辞儀をしていたのだが、家から連れて来て帰りもエスコートして送って行ってくれた娘婿の森好弘氏に聞くと、家へ帰ったら「お父さんは何処へいったのかね、いないよ」と云っていたと云うのだ。
 私の企(タク)らみ・ショック療法は、全然役に立たなかったようだが、私の思いつきにツキあってくださった皆さんに御礼を申し上げ、平成21年を送ったのである。
〈了〉


『老塵秘抄』こぼれ話<3>(11年4月5日付)
 私が望外の喜びだと感激したのは、東京の小学校の後輩・落合清一氏と中学校の同級生伊藤文学氏が駈けつけてくれたのと、もっと嬉しかったのは「早蕨句会」の先生である堤保徳氏が、超多忙の時間を割いて御出席くださった事である。
 堤先生は「岳」俳句会の宮坂静生先生の右腕として事務局長の要職にあり、1500人の会員をまとめ、会の運営の責任者であり、その日常はハードなのである。
 長野県カルチャーセンターの講座もあり、各地の句会の指導にもあたられている。堤先生は、早稲田大学文学部卒で新潮社の編集者として勤務され、また大いなるロマンを求めて七つの海をステージにする「船乗り」の体験もされているし、長野放送の営業局長として定年まで活躍された経歴の方である。
 私が堤先生を尊敬するのは、文章のテニオハや文法など、実にいい加減な私と違って、明解に適確に教えてくださるので、カルチャー教室の生徒さんにも信頼されているし、なにしろ温かい人柄のにじみ出ているソフトな生徒さんへの対応には自然に頭が下がるのである。
 一人くが私との関係と自己紹介をして、にぎやかにお喋りをしていると、堤先生は「番頭讃歌」には載っていない『清風園女神湖ホテル物語』に飯島社長のワカサギ釣りのシーンをスケッチした私の小文を取り上げてくださって、編集者としての眼力と云うか鋭い批評眼を見せてくださり、私は少し神妙になってお話を聞いたのである。
 堤先生は信州新町のご出身で、私が一度、勤めさせていただいていた上山田ホテルの名女将・若林和子さんのイトコなのである。
 もう一つ、つけ加えると私の十年来の主治医である元日赤の市川能人先生―上山田で開業されているのだが、その御夫人は上山田ホテルのお嬢さんなのである。
 いろくな御縁に恵まれて人間世界を結んでいるわけで、私の老後は楽しいし面白い人生なのだと感謝している。    
 
〈つづく〉


『老塵秘抄』こぼれ話<2>(11年3月25日付)
 戸倉クリニックの先生に云わせると、「亭主が我ままで、ガミく文句を云うウルサいタイプの奥さんが認知症になる率は高い」のだそうである。
 そう云われてみれば、私は食べものだけでなく、すべてのものに好き嫌いが烈しく、感情の振動がありすぎる亭主関白型のイヤなヤツで、女房に精神的に大きな負担をかけていたらしいのである。
 そのダメ亭主の私が思いついたのは、「女房に何かショックを与えれば、ひょっとしたら正気に戻るんじゃないか」と思い、金婚式にはまだ二、三年あるから「出版記念パーティー」を開いて、女房の内助の功に報いると、大きな花束を渡したらどうか、とヒラめいたのである。
 たまたま更埴新聞の山下哲雄社長の御好意で『番頭讃歌』なる小冊子を出版していただいていたので、稲荷山の喫茶「風雅」のマスターでジャズピアニストの唐沢淑郎さんにお願いをして、ホールをお借りしてケーキとコーヒーだけのティーパーティーをさせていただき、女房に大きな花束を贈る計画を立てたのである。
 急な話だったので、ほんとに内々の親しい方だけに連絡をして(平成21年)12月15日の午後2時から『高橋民夫出版記念会場』なる看板を唐沢宗男氏に書いていただいて開催したのである。
 元上山田温泉圓山荘の支配人福沢氏、元清風園のクラブのマネージャー宮島氏、戸倉温泉の手打そば「はたや」の池谷ひろ子さん姉妹、唐沢さんの音楽仲間であるジャズボーカルの広田ヨシキさんも須坂市から来てくださった。
〈たかはし たみを(高橋民夫)氏は戸倉在住〉


『老塵秘抄』こぼれ話<1>(11年3月15日付)
 縁と云うものは不思議なものだと、この頃しみじみ思うようになった。
 人生50年と云うのが普通だった昭和6年に生れた私は、今年「傘寿」になったわけである。
 医療福祉の充実した有難い御時世で、後期高齢者の一人として優先的に老人ホームに入所させていただいたのだが、我ままな私は規則正しい団体行動、共同生活に馴染めずに、一年御厄介になって平成22年6月には我が家へ戻ってしまったのだ。
 昭和60年55歳の時、心筋梗塞で国立長野病院に入院し、田中先生の処置が迅速であったので、命拾いをして生き永らえているのである。
 それ以後、糖尿病が悪化して入院したり、骨髄異形成症候群にとりつかれたり、三つの重い病気を抱えながら「傘寿」を迎えるのは、実に好運であり、長野赤十字病院のそれくの診療科の先生と看護師さんのお蔭なのである。
 友人・知人に「傘寿」で「おめでとう」と声をかけられると、「傘寿じゃなくて、三重苦だよ」と憎まれ口を叩くので、「相変わらず年をとっても素直じゃねェなァ」と苦言をいただくのである。
 人生の晩年、余生とは静かで落ち着いた環境で、悠々自適のハッピーな状態だと思っていたのが―まさかの連続で思いもしなかった女房の認知症であった。
 若い時からさんざん貧乏をして苦労をして、家の為に働きながら、ヘンな男と結婚させられて、その挙句に認知症とはカワイソーな人である。
 私のような男と結婚しないで普通の人と一緒になっていたら、今よりもずっと幸せな人生だったろうと、「たあくらたあ」の亭主は女房に同情しているのである。〈つづく〉



『老塵秘抄』<7>(11年2月25日付)
 若い私にとって楽しいと云うより、シゲキがありすぎて、「苦痛」だったと覚えているが―いま80歳になって、ふりむいてみると「甘美な苦痛」であると思えるのである。
 民主党でいま、お会いしたいと思っているのは、玄葉光一郎氏(現・国家戦略相)である。
 玄葉氏の「おじいさん」は竹久夢二の親友であり後援者であり、福島県に於ける「夢二の行動、事蹟を一冊の単行本にまとめてくださった方」である。
 私の母方の祖父「長沢仙蹊」も玄葉氏の「おじいさんと御一しょ」に夢二を招いて画会を催し、句会を開いたりした“モノズキ”の一人なのである。
 私が戸倉温泉で詠んだ夢二の俳句『馬洗う水の迅さや青嵐』を、事実に基づいた作品として、千曲川のほとりに建立していただきたいと、何年も前からいろくな方にお願いをしているのだが、無位無冠・無職の老人の声は、どこへも届かずに黙殺されてしまっているのである。
 更埴新聞の山下社長の御好意で、貴重な紙面に寝言か世迷い言か酔っぱらいが“ゴタ”をならべているような駄文を掲載していただくのは、ほんとうに有難いのだが…。
 老人ホームの2ケ所引越しと自宅へ戻っての生活で、資料をあちこと移したので、行方不明。「段ボールに積みこまれて物置きの中か」になっていて、「いつ、どこで、誰が、何をしたか」と云う基本が出来ていない文章を発表するのは実にお恥ずかしいのだが―。
 余命いくばくもない八十歳の老人の噂話、遺言としてお読みいただき、逆に気がついた点、間違ったことをお赦しくださいますよう、お願い申し上げます。 
〈了〉


『老塵秘抄』<6>(11年2月15日付)
 幹事さんが「柚庵は信州の有名なおそばやさん」だと紹介してくれたが、「柚庵なんて聞いた事ないよ。最近はニセモノが多いんだよ」とボヤいていたら、女将さんがお酌に廻ってきた。
 早速「信州のどこですか」と問いただしてみると「上田の東都庵の支店で、私は娘です」と挨拶されて、私はすっかり恐縮してしまった。
 「東都庵のおそばは黒くて太い」けど「柚庵のそばは白くて細いのは何故ですか」と聞くと、「東京のお客様に愛してもらうには、変身しなくちゃダメなのよ」と軽く、イナされてしまった。
 話をしている中に、私が一時総支配人をしていた戸倉パークホテルの専務の寺沢啓二氏の奥さん弘子さんと染谷丘高校の同級生だと云う事が判り、またく話が弾んでO・B会の他のメンバーから、「おいく高橋クン、女将サンを独占するな」とヤジられる仕末だった。
 私は笹屋ホテルに勤めていた時、上田の交通公社の池内氏や沢氏に頼まれて、修学旅行の添乗員を何年かお手伝いをした時期があり、染谷丘高校と小諸高校の女子学生数百人と同じ列車、同じバス、同じ旅館で移動したり、宿泊したり、伊勢神宮から奈良・京都を廻った経験があるのだ。
〈つづく〉


『老塵秘抄』<5>(11年2月5日付)
 菅さんの方には特別の関係はない。笹屋ホテルにお世話になっていた時、江田五月氏のお父上、江田三郎先生にはお目にかかった事がある。
 社会党の闘士らしからぬ美しい銀髪の、もの静かな知性的な感じの方であった。
 私が、大へんお世話になった年上の女の人は江田氏の熱烈なファンで、経営していた料理店には、江田先生の書かれた色紙が飾られていた。
 笹屋ホテル時代、羽田孜先生のお父上、武嗣郎先生が、緒方武虎先生や石井光次郎先生を御案内してお見えになられたし、ちょくく御利用していただいたものだ。
 孜先生は上山田の清風園の支配人の森重氏と上田高校の同級生で、森重氏とセールスに同行すると、東京の羽田先生の事務所を必ずお訪ねしたものだ。
 「歯医者に行ってくるから留守番を頼む」と森重氏に部屋のキイーを預けてゆく孜先生は、若くて颯爽としていた。
 小田急バスの観光係長をなさっていた時期があるので、観光面の事情もよく御存知で、名刺の裏に選挙区の温泉地の名前を印刷して、「PRしてるんだ」とおっしゃっていた。
 笹屋ホテルは、本業の「坂井酒造場」の関係で、佐久の酒造組合は大事なお得意様であり、橘倉商店の井出一太郎先生を応援していたので、地元の羽田先生の後援会から苦情が出て、だんく笹屋を使われなくなってしまった。
 私は井出一太郎先生が「歌人」としても立派な作品を作っておられたので―「ヘタな短歌をつくるのを楽しみにしている」と、お話を申し上げたりしたものだ。
 後年、県庁職員から笹屋ホテルの支配人になり八光電機の常務になった児玉氏は「埴科郡の連合青年団長をしていた時、井出先生は佐久、小坂善太郎先生は長野の団長をしていて―同志だった」と、よく自慢していたものだ。
 私は昭和四十三年に笹屋ホテルを退職したので、その後地元の選挙におつきあいする事もなかったが―数年前にフコク生命系列の「三京企業株式会社」のO・B会があって上京すると、フコクビルの地下街の「信州手打そば柚庵」と云うお店が会場であった。 
 〈つづく〉


『老塵秘抄』<4>(11年1月15日付)
 ドブロクを飲んで酔っぱらって、先方の村の女の子たちを、カラかったり追いかけたりして、その村の若い衆のグループと口論になり、最悪のケースとしては、両グループが入り乱れて乱闘騒ぎになったものだ。
 素手で戦うのが暗黙のルールだったので、お互いに大きなケガがなかったのは―貧しいけれど、いい時代だったのではないだろうか。
 私たちのグループには、材木屋の息子の望月嘉幸君がいて、度胸もいいし、腕っぷしも強くて、どこへ行っても「敗けた」事が無かった。
 「あいつらに気をつけろ」「手を出すな」と敬遠されたり、仲良くツキあってもらったりして、いい気になっていたのだが、「鏡中条村」の造り酒屋の金丸一族の一団とぶつかって、見事に、たたきのめされてしまったのである。
 この時、金丸信氏が先方の大将として、いたのか、いなかったのか、はっきりしないが―チリくバラくやっと逃げ帰ってきた私達は、翌日「鏡中条村」の「金丸二郎氏」に呼び出されて―謝りにいったのである。
 我が方の大将、望月君はカッコが悪いので、私に「行ってこい」と命令して、あとは知らん顔をしていた。
 何をどう、謝ったのか、忘れてしまったが「以後、鏡中条村のお祭に、お前たちは来ちゃいけねェ」と念を押されて、帰ってきたのである。
 この時会った金丸二郎氏は、後になって、金丸信氏をテレビや写真で拝見すると、体格は一廻り小さいような気がするが、顔つきはまさにそっくりで、私は忘れたい不良少年時代を思い出して、がっかりしたものである。 〈つづく〉

(作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。著作に「竹迷和尚遺聞」や「女神湖ホテル物語」「番頭讃歌」など。戸倉在住)


『老塵秘抄』<3>(11年1月5日付)
 当時、笹屋ホテルや八光電機の経理をみていた公認会計士の小林先生は、中央大学や明治大学の講師をしていた方で、「国際観光旅館連盟」の顧問として、全国各地の温泉旅館のホテル整備法による政府登録旅館に申請する指導をしたり、アドバイスをしていた関係で、上越線上牧駅近くにあった「上牧荘」と云う、古くて小さな建物の旅館を、前橋市の魚屋さんの桜沢氏に頼まれて経営にタッチし、数年かかりで高級和風別荘に増改築して、魅力的な温泉旅館として売り出すことに成功していたのである。
 戸倉の郵便局長のY氏や、Y氏の御子息で東京で郵政関係に商品を納入していた商事会社の大株主になり、出資をしていたのだが、「上牧荘」の土地がらみの裁判に巻きこまれて、地元のK氏に結果的に乗っとられてしまったのである。
 小林先生は私文書や公文書の偽造行使で逮捕され、大学の先生の名誉を奪われてしまったし、Y氏父子は戸倉町の旧家の土地・建物まで手離すと云う「敗北」をしたのである。
 後になって、判ったのは、K氏が田中角栄氏の若い頃からの親友であり、角栄氏の政治力に「敗れた」と云うのが事実であったらしいのである。
 角栄氏は病いに倒れたあと、この上牧荘の敷地に建てられたK氏の温泉病院で療養生活を続けていたのである。
 角栄氏の錬金術、金脈についてはいろく伝えられているが、この「上牧荘」の問題は「たいした事じゃない」とマスコミには取上げられなかった。
 私にとっては、小林計理士もY氏父子も親しい方であり、お世話になった方達なので、このショックは大きかった。
 金丸信氏との御縁は、終戦直後の甲府盆地で中学二、三年生頃の私と金丸信氏の弟だかイトコだったか、「金丸二郎」氏との接触であった。
 あの頃は娯楽と云っても何にもない時代で、殊に農村では、たまに小学校の庭で映画を見るのと各町村のあちこちのお祭りに上演される若い衆の「演芸」を見に行く事ぐらいだった。
 私は当時「中巨摩郡南湖村西南湖」と云う部落に住んでいて、近くの若い人たちの自転車に乗せてもらって、中巨摩郡内の町や村のお祭りに「遠征」して行ったのである。 5、6人か10人位でグループを作り、行動していた。 
 〈つづく〉


『老塵秘抄』<2>(10年12月15日付)
 他の一人は、権力志向の強い長州人と、朝敵としてヤマトタケルや坂上田村麿に征服されてしまったアイヌ系やエゾ系の東北人との戦いだとも云っていた。
 「アテルイ」や「平泉の篠原氏一族のように、東北人は人が善くて、半島系やクマソ系の長州人にダマされて討たれた史実があるのに、「どうして戦うのか」と云う意見もあった。
 それぞれ面白いし、御もっともな御高説として承っておいて、「私は政治のプロとアマとのゲームだよ」と割合冷淡な意見を述べておいた。
 O氏は田中角栄氏の秘蔵っ子と云われ、47歳で自民党の幹事長になり、金丸信氏に「総理になれ」と奨められた噂のある実力者で、選挙の神様とか剛腕とか称されている政治家のプロである。
 対するK氏は婦人運動の第一人者市川房枝女史の晩年のサポーターとして、市民運動の理想を掲げて政界に飛びこんできた若者で、いまでも若い人や女性に人気のある清新な感じのアマチュアである。
 生れも育ちも全然違う、この二人の対決は、どちらが勝っても現在の日本ではマイナスの結果しかもたらさないと私は思っていたのだが―テレビで観戦している限り、けっこう楽しいショーであった。
 ふだんは、キレイ事や建前を重々しく発言している政治家が、本性を現し、感情をむき出しにして本音で相手を攻撃しているのを聞いて、「政治家も生身の人間なんだなァ」と、なんとなく「なっとく」したものである。
 田中角栄氏に直接お会いした事はないが、新潟出身の友人が子供さん達の進学や就職に角栄氏の紹介状をもらった、と感謝していたのが、私の記憶に残っている。
 私にとって角栄氏の実力の一端を嫌と云うほど味わった一つのトラブルは、今でも忘れられない強烈なダメージを残している。
 昭和30年代、上越線上牧近くにあった「上牧荘」と云う温泉旅館の話である。
 (作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。著作に「竹迷和尚遺聞」や「番頭讃歌」など)


『老塵秘抄』<1>(10年12月5日付)
 信州の夏は短かすぎると、いつも感じていたのだが、今年の異常気象には、まったく参ってしまった。
 冷房の嫌いな私が今年は、すっかり冷房の御世話になって、熱中症にもならず、なんとか無事に9月を迎える事が出来た。
 残暑は厳しかったが、面白いと云っては申し訳ないのだが、「民主党」の党首選のテレビ報道にはまってしまって、普段はあまり政治に興味を持たない私が、東京の小学校や旧制中学の生き残っている友人たちと、電話でカンくガクガクならぬ、入れ歯をガクくさせての政治談議を展開して、タイクツしなかった。
 神聖な祀(マツ)りごとを、興味本位でワアくわめいているのは、誠に不謹慎で、いい年をしてお恥ずかしかったのだが、「お前はどう思ってるんだ」と質問されて、「西部劇映画の名作O・K牧場の決斗ならぬ、永田町劇場のO・K対決」だと皮肉っていたのだが、「どっちが勝つと思うか」とか「どっちが好きなんだ」と詰問されると、年のせいか、年長のO氏に同情したものである。
 「年上の人を大切にしなさい」と教育された昭和一桁の私には、「世代間競争」は気に入らない。
 先輩に一歩も二歩も譲るのが、礼儀だろうと思っている。東京の友人の一人は「重厚長大」から「軽薄短小」に変化した産業界や技術革新を例にとって、「もうO氏の時代は終ったんじゃないか」と断定的に云っていた。


 『老塵秘抄』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で79歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。
 同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
 日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人教会、全国良寛会、評論誌「溯行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。
 著書に「竹迷和尚遺聞」(永平寺祖山傘松会)、清風園「女神湖ホテル物語」、雑文集「番頭讃歌」(更埴新聞社編)など。