信州居留民団/たかはし たみを
『信州居留民団』<17>(10年11月15日付)
そして、この「豚肉をボイルしたのは、日本酒でもビールでもウヰスキーでも、老酒でも何にでもあうんだ」と笑っていた。
その後、私は急なお客様の時、しばしばこのアドバイスに従ってやってみたら、ほんとうに大好評であった。
今になってふり返ってみると、三人の大先輩と「杏苑長野店」で「信州居留民団」だなんて云いながら、ワイワイガヤガヤお喋りをしていた時代は、いい時代だったと思うし、お互いに若かったし楽しかったなと、しみじみ思い出しているのである。
横井洋一氏 平成二年四月二日没 78歳 名古屋市日泰寺にお墓あり。
田中英一氏 昭和五十六年七月八日没 50歳 東京多摩墓地にお墓あり。
宮本和夫氏 平成十三年七月二十九日没 73歳東京雑司ケ谷にお墓あり。
合掌〈了〉
『信州居留民団』<15>(10年9月15日付)
だから私は横井さんと田中さんのお二人には、本当にお世話になりっ放しで頭が上がらないわけで、四人の中では一番年下の弟分みたいなものだったが―。
この大先輩達は古今東西何一つ知らぬ事のない該博な知識の持主であり、何事にも一家言のある凄い人達であったが、私に対していつも一目置いてくれたのは「女の人について」であった。
これは、お二人の「早とちり」と根も葉もない誤解、思いこみによるものなのだが、私が温泉町に何十年も棲息していて、芸者さん、カフェ、バーの女給さんたち、旅館のお部屋係のお姐さん達と仲良くしていたので、「女の人」に対する情報をたくさん持っていて、アプローチ出来る―簡単に云えば女の人に馴れているプレイボーイだと思いこまれていたのである。
宮本さんは、お二人より少し「実戦派」で「遊んで」いたんじゃないかと、私は思っているのだが、私にシッポをつかまれるようなヘマはしなかった。
上山田温泉の「和楽寿司」の勝ちゃんの気質に惚れこんで、仕事が終わってから夜遅く、よく飲みに行ったり、お寿司をつまみに行っていたが、「和楽」へ来ている芸者さん達の品定めをして楽しんでいたものだ。
『信州居留民団』<14>(10年9月5日付)
横井さん、田中さんのお二人にはこの「女神湖ホテル」で何と云ってお礼を申し上げたらいいのか分からないほど応援していただいたのである。
横井さんは永六輔さん、文学座の杉村春子さん、稲野和子さん、「手作りのホンモノを愛する一、一〇〇人の会」の会員の方たち、島崎藤村のお孫さん樹夫(ミキヲ)画伯などを連れてきていただいた。
ただ女神湖ホテルは赤字続きで社員数も少なく、夜も朝もサロンと呼んでいた食堂で「バイキング方式」のお食事だったので横井さんのお気に召さなかった。
美味しいとか不味いとかではなく、取り放題、食べ放題のセルフサービスは横井さんの「美学」に合わなかったのだ。
その代わり特別室のベッドを褒めてくださった。アメリカのキングコイル社製品でサイズも大きく「バネの固いのがいいのだ」と云っておられた。
田中さんは、御自分の主宰する「西部劇通信」の会員や読者の方、「映画ペンクラブ」の友人達、師匠淀川長治先生の門下生の集まりである「軽役会」のメンバー、新聞、テレビのマスコミ各社の「在京観光記者クラブ」の旅行作家、トラベルライターの方々を「総動員」してくださった。
平凡出版「アンアン」「クロワッサン」の小池氏は日本画家の吉野晁生先生を紹介してくださった。
吉野さんは「味覚春秋」に毎号イラスト入りの食べ歩きの記事を執筆されていたし、車が好きでフランスのシトロエンを愛用されていて、全国の旧街道めぐりを「モーターマガジン」や「三菱自動車」の機関紙に書かれていた。
また、趣味の釣りをなさって「フィッシング」や「釣り人」に記事を載せられたり、「模型飛行機」を作って、その全国大会を開催されたり、「週間朝日」の旅行欄に「女神湖ホテル」を推選してくださった。
田中さんと直接の面識はなかったのだが、田中さんの親友の小池氏を通じての御縁であり友情であった。
『信州居留民団』<13>(10年8月25日付)
三好氏は、石原裕次郎の主演で映画化された柴田練三郎の小説「若くて悪くて凄いこいつら」のモデルだと噂された人物で、飲食業界の風雲児であった。
銀座四丁目のフランス料理「マキシムドパリ」、イタリヤ料理「ベルべデーレ」、ケーキとコーヒーの「カージナルス」、新宿伊勢丹会館のスペイン料理「エル・フラメンコ」、ドイツ料理「ローゼンケラー」を展開していて新設する中国料理部門が「青冥」だったのである。
「青冥」の一号店は大阪北のクラブ「ラメール」のビルの1階にオープンした。三好興産副社長の花田さんはクラブ「ラメール」のママさんとして、社交界では名前の通った人であり、大阪は三好興産のスタート地点、発展の基礎となった縁起の良い土地だったのである。
「青冥」は、たちまちの中に大阪戎宗右衛門町、阪急三番街、梅田など次々に開店をし、東京の赤坂、有楽町新宿二幸にも進出して年商数十億円のチェーンに成長した。
宮本氏は自分の育てた若いコックさんや、香港台湾からスカウトしてきた優秀な料理人に厨房を任せて、「社長」職に専念するようになった。
余談だが、この「青冥」の名付親はSBCや電算におられた「水谷昭二」氏である。英語名の「ブルーヘブン」が三好社長や宮本さんの心をつかんだのである。
同じ頃、昭和四十三年、私は笹屋ホテルを退社して別所温泉「花屋ホテル」のお世話になり、翌、昭和四十四年秋にオープンする「清風園女神湖ホテル」の開業準備に入ったのである。
(作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」)
『信州居留民団』<12>(10年8月15日付)
田中さんは、昭和四十三年頃、東京に引き上げて高田馬場に事務所を開き「信越企画集団」をスタートさせ、「西部劇通信」を発行し「桜井甘精堂東京直売処」を開店して、多角的な活動を始められた。
私が笹屋を辞めたいと相談した時、「僕も経験があるけど、辞めるとか辞表をたたきつける快感はクセになるから、その誘惑に負けないようにしないと、結局損をする」と忠告してくださった。
田中さんは体もそんなに大きくないし、色が白くて優男風であったがシンが一本通っていて、シニカルなところもあった。
登山帽、ハンティング、ベレー帽など帽子が好きで洋服は紺系統のものが多かったような記憶がある。
宮本氏は昭和四十二年、韓国系の実業家「竹馬商事」の全万洙社長の協力要請に応えて、「杏苑」を辞して上京。
東京八重洲口の「八重洲大飯店」のオープンに全力投球したのである。五階建てのビルが全部中華料理のレストラン、宴会場、個室の大規模本格的なお店である。
「杏苑」と業務提携をして、長野県で採用した新卒者を「八重洲大飯店」に預けて、宮本氏が技術指導をしてくださる契約であった。
私は中華料理店の経営ノウハウを学びマネージメントを教えてもらう為に、出向派遣されて上京したのである。
笹屋ホテルと八重洲大飯店の両方から給料をいただいて、都内の有名中国料理店の「食べ歩き」をさせていただいたのである。
宮本氏は「八重洲大飯店」オープン後一年位して今度は、当時日の出の勢いであった銀座の「三好興産」の社長に引き抜かれて「青冥」の総責任者になった。
(筆者・高橋民夫氏は千曲市戸倉在住で79歳)
『信州居留民団』<11>(10年8月5日付)
シルバーグレイの頭髪に度の強い眼鏡をかけ、すらりとした長身に白い麻の背広のよく似合うダンディな渋い紳士だった。気難しいところもあったがボソボソと喋る人なつっこい面もあった。懐かしい人だ。
田中英一氏に初めて会ったのは、SBCの新年会が笹屋ホテルで行われた席上で―後にSBC専務になった営業の丸山広氏の紹介であった。
昭和三十八年か三十九年だったと思う。信州に来る気になったのは、SBCの常務になられた沢亨氏に誘われたのだとお聞きしている。
SBCのPR誌「日本の屋根」の編集をしながら放送文化センターから「善光寺」「木曽路」「黒四ダム」など、カラー写真をふんだんに使った豪華な大版のガイドブックを次々に出版し、地方都市である長野の企画力、印刷文化の高さと、長野県の観光地としての魅力を全国的に認めさせた功労者である。
笹屋ホテルの新築オープンに関する企画には、全国的に協力していただいた。パンフレット制作には最近すっかり有名になってしまった下平正樹氏〈前信濃美術館副館長〉がカメラマンとして参加してくださった。奈良の国立博物館から戻ってきたばかりの若々しい学究肌の好青年であった。
アシスタントとして田中さんの仕事を手伝っていたのが信大教育学部の学生の吉田君と柳沢さんのお二人で、お二人はその後結婚をしたのである。
御主人の吉田氏は奥さんのプロデューサーとして、ベターハーフとして奥さんの大活躍のバックアップをなさっている。羨ましいくらいの仲の良い息の合ったコンビである。
奥様の名前は切り絵作家柳沢京子さん、田中知事の応援団長として長野県を代表する女性の一人になられたのを―陰ながら喜んでいる私である。
『信州居留民団』<10>(10年7月15日付)
いろいろな、エピソードが伝えられて御本人たちの知らない、お二人が歩き廻っている感じがしないでもない。
横井氏は戦後長野市で洋画家の藤井令太郎画伯と「白馬書房」を設立し、出版を手がけ、その後、「くろひめ書房」で出版業者として名を成していた。
昭和三十六・七年頃、農村文化協会の八木林二氏らと「社団法人信濃路」を発足させ、機関誌「信濃路」を発行した。
編集長としての横井氏は当時人気のあった東京銀座のPR誌「銀座百点」を参考にして洗練された、それでいて暖かい感じの小型の創刊号を出した。
永六輔氏、文学座の杉村春子さん、放浪芸研究の小沼昭一さんなどとの交遊を通じて、信州に刺激的な新しい風を吹きこんでくださった。
「信濃路」の編集長をやめてからは、大門町の藤屋旅館の所で、民芸品のお店「信濃路」を始められて、「野沢温泉のアケビ細工鳩車」、「木曽のたたき彫りの漆器」を全国に紹介し、「桜井甘精堂の栗羊かん」、下諏訪の「新つる」の塩羊かんなど、信州に美味いものあり名品ありと、熱心にPRを続けられたのである。
手作りのホンモノを愛して「一、一〇〇人の会」を結成したり、長野セントラルホテルを会場にして、写真家の金子晴雄氏と「AO(アオー)会」なるユニークな会を作って、ゲストを招いて話を聞いたり常連のメンバーがそれぞれの関心事を自由にスピーチしたり―楽しい会合の世話人としてコーディネーターとして頼りになる存在であった。
ホンモノを見極める眼力を持った人だと横井さんを尊敬していた私は、横井さんに「高橋民夫評」を求めると「虚無的ロマンティスト」だと一刀の下に斬って捨てられた。
晩年は、東京か鎌倉で民芸品の店をやりたいと云っていたのに、いつのまにか名古屋へ行ってしまって、しばらくして亡くなられたそうだと、風の便りにお聞きして、私は、ただただ呆然としていたのである。
「木曽馬篭の島崎藤村ゆかりの宿「四方木屋」の支配人をやってくれ」と頼まれたのも忘れられない思い出だ。
(「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」。号「定詮」。千曲市戸倉在住で78歳)
『信州居留民団』<9>(10年7月5日付)
信州人じゃないのに、信州をネタにして儲けさせてもらっている後ろめたさ―コンプレックスがあったのかもしれない。
ちょっと廻りを見渡しても、当時の笹屋ホテルの建築設計をしていた友田先生は東大工学部出のエリートだった。
が、会津若松生れ、温泉掘削のコンサルタントで地質学者の安斉先生は山形大学教授で山形市在住。造園家の阿部先生は東大農学部出で福島県相馬中村の方。温泉の加熱装置「ヒートポンプ」の発明者で製作者の小野電機工作所の小野社長は福島市の人だ。
ウールの丹前や羽織を納めていたのは山梨県都留市の業者、食器類は九州有田の問屋さん、パンフレットは新潟市の青木印刷さん。 他の観光地や旅館へ出入りしている業者の人たちも聞いてみれば県外の人が相当数いるんじゃないかと考えたのである。
趣旨に賛同する「信州居留民団」の資格のある正会員を増やし、業者の人たちを賛助会員にして、会費を集め信州へ観光客を誘致し、信州の特産物を都会の人たちに販売する―そんな夢を描いたのである。
横井洋一氏と田中英一氏は、今では長野県の文化人知識人の間で「伝説の人」になっている。
(筆者は戸倉在住)
『信州居留民団』<8>(10年6月25日付)
宮本氏は車や人の流れを確かめると、それぞれの候補地に立ってカウントをし、昼と夜の時間帯を変えてリサーチし、細かい分析をして、最終的に大門町の大門会館に出店を決断した。
大門会館は2階建の貸ホールであったが、1階に駐車場があり、2階の貸ホールを優先的に宴会場として借りられるのがプラスだと判断したのである
坂井社長にしてみれば、大門会館の場所が親戚である丸為呉服店の旧店舗であったのも、決定する際に少しは意識されていたのだろう、と私は推測しているのである。
宮本氏はレストランなど飲食店の設計家さんとして人気のあった渡辺先生にお店の設計を委嘱して、1階にカウンターだけの「中国そば」と「コーヒー」のスナック、2階に十人座れる朱塗りのターンテーブルを置いた個室を二つ作り、その他に二〇席の小じんまりとした気のきいたシックなデザインの「杏苑長野店」がデヴューしたのである。
この「杏苑長野店」で大門町の藤屋旅館のところで民芸品のお店「信濃路」を開いていた横井洋一氏とSBC放送文化センターの田中英一氏と私の三人がしょっちゅうコーヒーを飲んだり「什景湯麺(スチンタンメン)」「炒麺(ツォーメン)」を食べたりしてお喋りをしていたのだが、その仲間に宮本氏が加わったのである。
そして、誰が云い出したのか忘れてしまったが、「信州居留民団」を作ろうと云う話が出てきた。これはたまたまこの四人が「信州人」じゃなくて云わば他所者(ヨソモノ)であり、信州へ出稼ぎに来ている共通の親近感があったのである。
それが信州人じゃないが、信州人以上に信州を愛している人間の集団を作ろうと云う発想になったのである。
『信州居留民団』<7>(10年6月5日付)
結婚式の担当者として、東京の明治記念館のベテランのお世話係であった長野県出身の早川久美子さんが入社してくださって、「杏苑」の結婚式は始めて軌道に乗ったのである。
然し東京から一流のスタッフを多数迎え入れたので、人件費は増え、商売は順調に動き出したのだが、残念ながら採算が合わなかった。旅館の中だけの営業には限度があった。
日本料理の宴会のお膳に中国料理の一品か二品つけるとか、「北京ダック」や「鯉の甘酢あんかけ」を特別料理としてオーダーしていただくとか、それなりの努力をしてみたのだが、売上げは伸びなかった。
打開策をどうするのか―何回もミーティングが行われ、六本木で成功をおさめていた宮本氏は「長野市の繁華街に出店して稼ぎましょう」と云い始めた。
長野市内の適当な立地、手頃な物件はないかと探し始めたところ、笹屋のお得意さんの北石堂町の「おしゃれの店コイデ」さんの地下室、近畿日本ツーリストさんの3階のスペース、権堂の丸善商店さんの建物など、「お使いください」と好意的なお申し出があった。
〈つづく〉
『信州居留民団』<6>(10年5月25日付)
当時の商業美術の御三家の一人、三ツ橋良二画伯がカシヨ印刷の依頼によって、「杏苑」の書体ロゴタイプ、シンボルマークから包装紙、マッチのデザインまで引受けてくださって、レベルの高い作品―商品が揃えられた。〈ちなみに、商業美術の他のお二人は栗谷川健一画伯と宮永岳彦画伯であった。〉
オープンキャンペーンでは、御来店されたお客様に抽選していただき、当時ではまだ高価で「三種の神器」と云われた電化製品のテレビ、冷蔵庫、洗濯機などが当るビッグなプレゼントをしたのである。
長年お取引きのあった地元の電波堂石坂社長さん達の御協力によるものであった。
それから、旅館がマイクロバスで送迎しているのも珍しかった頃だが、佐久・小諸方面まで無料サービスをしたのも大きな反響があった。
千曲川沿岸ベルト地帯一〇〇万人の商圏にチャレンジすると意気壮んであった。
テレビ、新聞による広告宣伝も、視点を変えて宮本さんのお料理のファンである六本木「香妃園」の常連客の顔写真を、短いコメントを使って定期的に流したりしたのだが、信毎の夕刊を媒体にしたのは、殊に評判が良かったと記憶している。
ナベプロの渡辺美佐さん、美佐さんのお父上のマナセプロ社長、バンドマスターのチャーリー石黒、デュークエイセスの皆さんなどだ。
温泉旅館の「結婚披露宴」進出は同業者にも、お客様にも、一種のカルチャーショックを与えたものだと私は思っている。
現在では、旅館の営業で「ブライダル関連の売上げは、大きなウエイトを占める大事な収入源になっており、各旅館・ホテルの激しい競争が展開されている。
そのトップを切ったのが笹屋ホテル、「杏苑」であり、その名前は記録されるべきである。
(「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、78歳)
『信州居留民団』<5>(10年5月15日付)
玄関など本館部分は鉄筋コンクリートの建物でもいいが、「笹屋」の奥の方には、離れ家風の木造平屋建の数寄屋風の建物を十棟位、庭園の中に配置すれば最高の雰囲気になると考えたのだが―予算や収容力の関係で、この計画は見送りになってしまった。
この計画が実施されていたら、「笹屋」の営業も随分変わっていただろうなァと、今でも時々思い出すのである。
社長は笹屋ホテルのオーナーであると同時に八光電機製作所〈電熱器、注射針〉、八光活字鋳造機制作所〈印刷関係〉の経営者として、実業界の第一線で陣頭指揮をとっておられたので、都会の感覚、時代の流れ、お客様のニーズなど、適確に把握されていた。「温泉旅館の旦那さん」にはない情報をキャッチするアンテナを持っていたのである。
中国料理を新しい魅力ある商品として笹屋ホテルの営業の柱の一つにしようと考えられたのは、正しい選択であったと、私は理解しているのである。
坂井社長の商売に対する鋭い「カン」は、信州の田舎の小さな温泉宿を短い期間に「天下の笹屋」と尊敬される格式のある旅館に育て上げられた実績によって証明されている。
その才能―能力の原点は、「慶応ボーイ」としてのモダンなセンスと幅広い人脈にあったと私は思っている。
中国料理「青冥」(チンミン)は、宮本氏が東京から選抜してきた調理師、ウェイター、ウェイトレス十人位のチームによって、スムーズに華々しくオープンしたのである。
宮本氏は「杏苑」の名前とチャイニーズレストラン「プラムガーデン」を併用したいと主張していたが、「六本木ではうけるかもしれないが信州ではまだ早すぎる」と私も反対して、広告宣伝は「杏苑」にしぼられた。
『信州居留民団』<4>(10年5月5日付)
レストランのウェイター、ウェイトレスの職種も旅館では必要なかったので、私達はあわてて、従業員の募集をしなければならなかった。
後になってお聞きしたら、坂井修一社長に宮本氏を引き合わせたのは、日本橋浜町の経営コンサルタントの亀田一弘先生であった。
新増築工事の構想を練り始めた時点で、坂井社長は八十二銀行の小出頭取にお会いして、融資の相談などしていたのだが、その折に頭取さんから「名古屋の八勝館が評判いいから参考にしたら」と御助言をいただいたらしい。中部地方の銀行の頭取会で会議場としてしばしばお使いになっていた頭取さんの御推奨なので、坂井社長は「八勝館」を見学に行き、一泊してお話を伺ってきたと云っていた。
私は東京の国際観光旅館連盟の関野事務局長に理由を説明して「八勝館」の資料をいただいたのだが、戦後に建てたお部屋は明治大学教授で日本の茶室研究の第一人者堀口捨己先生の作品で、非常に格調の高いもので―昭和の茶室として後世に残る重要な建築であるとの回答であった。
『信州居留民団』<3>(10年4月25日付)
社長も支配人も不在だったので私がお会いしたのだが、およそ土建屋さんらしくないもの静かな紳士で、バーバリーのコートを丁寧に畳んでから、年下の若僧の私に深々とお辞儀をされるので、私の方が恐縮してしまったのである。
社長や設計の友田先生が単価や技術的な問題点をチェックして、守谷商会への発注がなされたのだが、守谷正寿氏の誠実なお人柄が信頼を得たのだと私は思っている。
坂井社長は家業としての旅館から将来を見据えた大胆な構想で、新しい時代の笹屋ホテルのヴィジョンを描かれたのである。
神式の結婚式場を設置し神主さんが挙式をし、椅子席の宴会場でお料理は北京料理で披露宴が行われるのは、画期的なスタイルであった。 外来客が自由に出入りするレストラン営業も、宿泊をしなくても笹屋の施設を利用して、パーティー、会議、商品展示会などを誘致する考え方は、従来の旅館ではないホテル的な発想であり、イメージであった。
坂井支配人と私は、お客様からアンケートにお答えいただき、「フランス料理」を希望される方が多かったので社長に報告をし、了解も得て、軽井沢在住の山本直文先生〈元学習院大学教授フランス語学者、全日本司厨士協会顧問〉に、「フランス料理の腕のいいコックさんを探してください」とお願いしていたのである。
それが突然、事前の打合せもなく「中国料理をやる」と社長が宣言して東京からつれてきたのが宮本和夫氏で、私はびっくりしたのである。
宮本氏は、年齢は四十歳位と聞いていたが、がっしりとした体格で頭髪は薄くなりかけて少しハゲ上がっていた。
太い黒ブチ眼鏡をかけ、黒っぽいダブルの背広を着ていた。一見すると「弁護士さん」タイプ、高級公務員、大学教授風でもあった。
声はしゃがれ声で迫力があった。
新築工事は始まっていたので、設計の友田先生は宮本氏と打ち合せをして特殊な中国料理専用の調理場と食材をストックしておく、大きな冷蔵庫を増設する為に、その対応に追われていた。
『信州居留民団』<2>(10年4月15日付)
宮本さんに初めて会ったのは昭和三十九年であった。笹屋ホテルが当時、年商五千万円位の営業規模だったのに、二億五千万円かけて新増築工事を計画中だと云う情報は直ちに建築工事関係業者の間に流れて、「受注させてほしい」と各社のセールスの担当者が早速訪ねてくるようになった。
鉄筋コンクリートの本体工事、給排水設備、電気関係、エレベーター、内装など何十社もの中、殆どが笹屋の得意先であり選定作業は大変だった。
例えば建築本体の見積りにゼネコン大手の清水建設さんが別府温泉「杉の井」の設計図面を持って売込みにこられた。
坂井(修一)社長が全国各地の評判の良い旅館を視察したその中でも特に「気に入った」のが「杉の井」だったのだ。
当時の清水建設長野営業所長の鴨下氏は、偶然私が子供の頃、弟のように可愛がってくれた東京玉川の渡辺八郎さんの従弟だったのである。
北野建設さんは、坂井治支配人の遠縁に当る国税局の向田三郎氏の推薦状を持って、創業者の北野会長がベンツでお見えになった。
ご案内役は笹屋の遠縁の須坂市の牧家の御当主で、北野建設の課長さんをなさっていた方であった。
守谷商会さんは、坂井社長の盟友、八光電機製作所の常務羽生田源三氏〈更北村長・県会議員〉の紹介で訪ねてこられた。
『信州居留民団』<1>(10年3月25日付)
昔は炬燵に当りながら地酒をチビリチビリやりながら、年賀状を一枚一枚読みながら御無沙汰をしている知人友人の顔を思い浮かべるのがお正月の楽しみの一つであった。
現役を退き病人暮らしになってから年賀状をいただく枚数は年々減り続けて古稀を迎えた昨年(2001年)は三〇〇枚、今年はとうとう二五〇枚になってしまった。
逆に「喪中欠礼」の葉書は増えて昨年の暮は二〇枚もあった。今年ショックだったのは大阪の宮本氏が七月に亡くなられたと、東京や千葉の友人からの葉書に書き添えられていた文面だった。
「まさか」と云う思いと、亡くなられたとしたら何故私に知らせがなかったのか―病人の私に心配をさせてはいけないと奥様が配慮されたのか―ともかく宮本さんの、甥っ子で長野市に住んでいる小池広保氏に電話を入れて確かめると―亡くなられたのは事実であった。
つい数年前まで年商数十億円の中国料理「青冥(チンミン)」グループの社長として張切っておられたのにと信じられない思いであった。年齢も私より二つ位上だったので、七十二、三歳―まだまだ惜しい人である。(評論誌「溯行」より転載)
『信州居留民団』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で78歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。
同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「溯行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。 著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)、清風園「女神湖ホテル物語」、雑文集「番頭讃歌」(更埴新聞社編)など。「獅子座流星群」など歌集 句集を発行。

高橋 民夫氏