番頭一代/たかはし たみを
『坂井みつさんへの手紙』<16>(09年9月25日付)
お上さんのことは、私が笹屋にお世話になっていた十数年の間の思い出だが、坂井修一さんの奥さんとして、また七人の子供さんのお母さんとしての一面、三人のお姑さんに仕えて妻として母として笹屋の女将としての実に見事な生涯を描ききるのは、落第生の私には難しい問題である。 お上さんは「しょうがないわねェ」と云って許してくださるかもしれないが、失礼な事ばかり書いてまったく申し訳ないと私は思っているのである。 どうか安らかにお休みください。 〈終〉
『番頭一代』が完結
連載『番頭一代』は今号をもって完結しました。「母のこと」(全7回)に続き、平成19(2007)年12月から連載『番頭一代』の掲載が始まりました。
『番頭一代』は「料理人さん達」(全7回)、「早春雑記」(全10回)、「井上靖先生の事」(全7回)、「松井政平さんの事」(全12回)、「お上さんへの手紙」(全9回)、「坂井みつさんへの手紙」(全16回)―と続きました。
『番頭一代』は評論誌「溯行」に発表された作品ですが、筆者「たかはし たみを」氏(千曲市戸倉)の意向により「更埴新聞」に転載しました。
読者の皆さまの感想など更埴新聞社までお寄せください。
単行本で発刊へ
「更埴新聞」に連載しました『番頭一代』は著者の要望で、再編集のうえ『番頭讃歌』として、一冊の本にまとめる予定です。年内発刊を目指し、準備をすすめています。
『坂井みつさんへの手紙』<15>(09年9月15日付)
お上さんの弟さんの塩入侃二さん〈八光グループ専務〉に笹屋にいた頃に、一パイ飲みながら、云われた事があった。
「民夫サンもあっちこっち飛んで歩いて大活躍してるようだけど、気がついてみたら、三蔵法師の掌の上で暴れ廻っていた孫悟空と同じで、笹屋の旦那さんやお上さんの掌の上をグルグル廻っていただけだってことが分かるよ」と笑われたものだった。
その時から、何十年も経って坂井修一さんもみつさんもいなくなり、塩入さんも浜名湖の近くのキリスト教の墓地に眠っているのだが―折りにふれて思い出す。キツーイ一言である。
『番頭一代 お上さんへの手紙』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で78歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)、清風園「女神湖ホテル物語」など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行。
『坂井みつさんへの手紙』<14>(09年9月5日付)
笹屋の建物の設計をした遠藤新先生も庭園の設計をした阿部先生も福島県相馬の人、「相馬の三奇人」と云われた変わり者である。
温泉を掘った地質学者安西先生は山形大の先生、温泉のヒートポンプ加熱装置を納入したのは、福島市の小野電機の小野さん、遠藤先生の後を継いだ山崎先生はどこの方か知らないが、そのお弟子さんの友田仁先生は東大出のクリスチャンだが、出身は会津若松である。
坂井千代さんに娘のように可愛がっていただいた私の母は福島市生れ、現在の八光グループの總師坂原氏は叔父上が福島県下で工場経営をされていたと聞いているし、笹屋ホテルの御当主坂井永一氏の夫人すみれさんのお母様も福島出身との事である。
丑年の方は御主人坂井修一氏は「丑虎(ウシトラ)同年会」で「寅年」だと云っていたが、やる事なすこと堂々たるウシ年であったし、お上さんもウシ年である。
坂井修一氏の学校の同級生で岡谷の製糸工場から引き抜かれて笹屋ホテルのお帳場さんになり、営業全般を一任された「坂井治氏」は完全に丑年であった。後に坂井治氏は「支配人」から「常務取締役」に就任された。
中沢弥一氏の「中沢組」で笹屋に出入りしていてお上さんに気に入られ、笹屋の社員になった望月武光氏は神田の電気学校出の丑年、最終的には「支配人代理」になった。
小諸商業高校から新卒で入社してきた北御牧村出身の内川勉氏は、経理部長、客室係から副支配人になった。
沖田松子さんは、長野市篠ノ井塩崎出身の丑年、私が力説すると、お上さんはほんとうに楽しそうに笑われたものである。
『坂井みつさんへの手紙』<13>(09年8月15日付)
私の好奇心、野次馬根性はお上さんを「辟易」させていたようで、昭和28、9年頃、古い帳場の冬ならば石炭ストーブの周囲に、なんとなくお上さん、お帳場さん、板前さんが集まってきて、仕事の打合せをしたり、世間話をしたりする時、生意気盛りの私がいろいろな事を云うものだから、いつも、最後には「あんたは夢みたいな事ばかり云ってる」とか、「民夫サンは評論家だから」とお上さんの一言で散会したものだった。
お上さんの事を思い出すと、いろいろあるけれど活き活きとしていたのは、出入り業者の人たちと仕入れ値段のカケ引きをしたり品物を選んでいる時だった。
布団、寝具、丹前、浴衣、食器、毎日従業員の「おやつ」に使うお茶菓子、お客さまのお着きの際にお出しする「お茶菓子」、笹屋ホテルで使うありとあらゆるものがお上さんの眼を通し、手に触れて採用になるのである。
笹屋ホテルの女中さん〈客室係〉のお姉さんたちが美人に見えるのは、「紫色の着物と黄色い帯のせいだ」と出入りの芸者さんが、羨ましがっていたものだが―そうした着物を選ぶセンスの良さも、お上さんの「天性」のものだったのである。
私の話にお上さんが面白がったり、笑ったりしたのは、「笹屋では、福島県出身の人とか福島県に関係のある人が大事にされたり、偉くなったりする」とか、「笹屋では旦那さんもお上さんも丑(うし)年なので、ウシ年の人しか出世しない、大事にされない」と云った時だった。
(高橋民夫氏は号「定詮」)
『坂井みつさんへの手紙』<12>(09年8月5日付)
Jお上さんの実家信州新町の塩入家については、お上さんの弟さんの裕一郎氏が「喜多の井」と云う名酒を造っていた。
長野の「よしのや」、信州中野の「山田家」、坂井銘醸「宝ケ池」、小布施の「市村家」、若穂の「原田家」などと企業合同して、「雲山銘醸」が発足した時、酒造りのスペシャリストとして、大いに盡力し県下有数の酒造メーカーに育てられたのである。
晩年は山羊ヒゲを生やし紺の作務衣姿で「信州新町美術館の館長さん」をなさっていたが、笹屋の名物の藤棚が木材で作られていた時代には新町の山の木を伐り出してきて、応援してくださった。
また、弟さんの侃二氏は信州中野の山田家から長野の中学校に通い、卒業後は義兄である坂井修一氏の起した「八光電機」の工場経営、事業展開、販売担当者として大阪に常駐し「八光」の基礎を築き発展の原動力となった。
一人っ子の坂井修一氏にとって唯一無二の心を割って話の出来る存在であった。ほんとの兄弟以上の連携プレーだったと思う。
坂井家のと云うか坂井修一氏の三つの事業「笹屋ホテル」と「坂井銘醸―雲山」と「八光グループ」の仕事は、塩入家の三人の姉弟があって始めて成立したと云っても過言ではないと私は思っている。
坂井家は慶長年間から400年も続いている名家だが、その歴史は、坂井家に嫁いできた新しい血との融合によって活力を生み、活溌に活動し継続し繁栄してきたのだと―私は感じている。
Kの芸者蘭子さんの事は上山田温泉に「蘭子さん」と云う妖艶な芸者さんがいて、お座敷で蘭子さんを見染めた笹屋一門の某氏がその色香に迷ったと云う話なのである。
お上さん風に云うと「あんたはお行儀が悪いから」と云う事になるのだが―この話はまだ当たり障りがあるので次の機会に書く事にする。
『番頭一代 お上さんへの手紙』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)、清風園「女神湖ホテル物語」など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行。
『坂井みつさんへの手紙』<11>(09年7月15日付)
この売買交渉の話には「おまけ」があって、K・K氏の愛人が笹屋の裏あたりに住んでいて、この女の人と中沢さんが「仲良くなった」とか。K・K氏は東京の小林計理士の家へ交渉に行っている間に、小林計理士の奥さんと密接な関係になり、小林計理士夫婦は離婚。小林計理士は戸倉温泉の芸者さん「二葉のあぐりさん」を落籍させて後妻さんにしたとか―面白い噂話があったのである。
何しろ株式会社戸倉温泉の株主には長野市内の大きな商店主の方が何人かおられて、笹屋で招待会をやってくださるのはいいのだが、お会計と云うといろゝ難クセをつけられて値切られたり、随分イヤがらせをうけたものである。
私が前面に出て「副支配人」として「仕末書」を書けとか「詫び状」を書けとか云われた。楽しくない思い出がいっぱいある。
H「河鹿荘」や「喜久の湯」「松橋氏の住宅」など笹屋の地続きの土地・建物を取得した時の「金額」とか、「いきさつ」などもお上さんにお聞きしたかった。
頼まれて買収したケースでも笹屋が「安い値段で叩いて買った」とか無責任な世間話が流布されて、面白くなかったものである。
I姫野公明先生の事は、私たちがお聞きしているのは「明治天皇の血筋を引いた尊いお方」であるとか、超能力者で霊視をされ霊魂を祀る戸隠の行者さんであると云うのだが、昭和天皇の皇后陛下の御兄宮久邇宮様が後援会長をしていらっしゃって、長野市内の有名な財界人の方々も篤信者であったと承知している。
温泉でも畑山ハイヤーの御主人、昔の圓山荘の小出社長など笹屋の坂井修一氏とご一緒に戸隠へお詣りに行っていたのである。
私は昭和38年の「天皇陛下が白鳥園にお泊まり」になると云う事態になった時は、坂井修一氏の「手紙」を東京上大崎の「公明院」へ届けに行った時、始めて親しく姫野先生とお話をさせていただいたのである。
『坂井みつさんへの手紙』<10>(09年6月25日付)
「お上さん」にその話をすると「そんな事もあったねエ、でもこまかい事は覚えてないんだよ」と。お上さんは困ったような顔をされていたが、それでもチャンとお部屋へ御挨拶に行ってくださった。
「文芸列車」で小説家のどなたがいらっしゃったのか、画帖などに記念に何か書いてないのか、そんな事をお上さんにお聞きしたかったのである。 Gの株式会社戸倉温泉は戸倉温泉の大湯や楽泉荘旅館を経営し、温泉街の土地などを持っていた会社らしいのである。
戦争中に笹屋が買収したのか借りていたのか、「楽泉荘」は疎開学童の宿舎になり、戦後は旦那さんが昭和19年に始めた「八光電機」の社員寮になっていた。
戸倉温泉「大湯」は私が温泉に行った昭和26年にはもう閉鎖されていて、営業していなかった。この株式会社戸倉温泉か楽泉荘の支配人の「中村唯信」氏は、戦後初の民選戸倉町長になった方である。
その株式会社戸倉温泉の代理人と稱する長野市在住のK・K氏が笹屋にやってきて、「楽泉荘」の建物〈木造2階建10室位〉を買うようにと申し出があったのが、昭和29年頃だったと思うのだが…。
笹屋の方は、初めは土木建築請負業で笹屋の内外の土地建物の管理、営繕などを担当していた中沢弥一氏が交渉に当り、途中から東京から来ていた計理士の小林先生がK・K氏と話し合うようになった。
小林計理士は「70万円なら買う」と云い、K・K氏は「そんなに安いんなら、笹屋の他にほしいと云っている処もあるので、そちらに売る」と云い出した。
話がまとまらず長引いていたので、K・K氏がある日突然現れて、「隣の都屋へ売る。それが嫌なら現金210万円用意しろ」と云い出し、笹屋の方では「旦那さんが出張中で不在なので、待ってくれ」と云うのだがK・K氏は承知せず、旦那さんの御母堂坂井千代さんが坂井酒造場の村尾留吉氏に電話して事情を説明し、現金210万円を持ってくるよう頼んだので、村尾氏があわてて駈けつけてきてくださった。
『坂井みつさんへの手紙』<9>(09年6月15日付)
邦助画伯が戸倉上山田温泉に疎開して昭和26年まで生活していたのは、旧更級村八王子温泉の実力者豊城道夫氏の御縁であると、お聞きしている。
豊城氏の御子息麟太郎氏は、長らく戸倉町長を勤められた方でもある。
橋本画伯の描かれた絵は戸倉上山田にも何点か残されているが、何しろ戦争中と戦後の画材など乏しい時代なので大きいものはない。
笹屋ホテルにあるのは、色紙に油絵で「南瓜」を描いた小品である。
碁が好きだったとかで好敵手であった滝沢理髪店の御主人と毎日のように碁を打っていたそうである。滝沢理髪店の御主人夫妻の肖像画は、そう云う悪条件の下で描かれた作品としては、高く評価されるものだと思う。
旧上山田町及び千曲市の市会議員で活躍された「鍋太金物店」の社長今井史人氏の子供の頃の記憶には、「橋本先生は、よくスキヤキを食べていて家の前を通ると美味しそうな匂いが漂ってきた」と回想されている。
橋本先生は栃木県出身なので、宇都宮の県立美術館には、代表作も所蔵されているし、時々回顧展も開かれてるとの事である。もっともっと世に知られて正当に評価されてほしい画家であると私は思う。
Fは芥川賞作家の石川淳先生の事である。昭和28年か29年頃「小説家の石川」と名乗るお客様がお一人でふらりと笹屋にお泊まりになった。
係のお姐さんの連絡をうけて、私は「石川達三」先生だと思って御挨拶にお伺いしたら―違うお客様であった。
適当に御挨拶をして引き下がって来たのだが、その時の石川淳さんのお話で、「昭和23年か24年に信濃毎日新聞の企画で「文芸列車」と云う催しがあり、東京から何人かの作家が招かれて長野へ来て、講演をしたり座談会をしたらしいのである。
善光寺をお詣りして、その後温泉に招待されて泊ったのだが、「その時の印象が良かったので泊まりに来たんだよ」とおっしゃって「美人のお上は元気かネ」と云った。
『番頭一代』の作者・たかはし たみを氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で78歳。
『坂井みつさんへの手紙』<8>(09年6月5日付)
八千穂村に疎開していた奥村土牛画伯の美術館があるのに、杉山寧画伯の美術館なり記念館が戸倉にないのはちょっと淋しい気がする。
私は「坂井銘醸の酒造コレクション」に「杉山寧画伯の作品を展示してほしい」と坂井銘醸の専務の清水さんにお話した事があったが―その清水専務もお亡くなりになってしまった。
杉山画伯御一家が疎開していた笹屋ホテルの別荘は、建築家遠藤新先生の作品としては珍しい「営業用の別荘」で、入口に冠木門のある玄関棟の〈笹屋の本館からお料理を運んできて、配膳室にもなっていた〉平屋と木造二階建三棟の如何にも遠藤先生らしい明るいのびのびとした建物であった。
昭和の建築物として、やはり保存しておくべき価値があったと、私は今でもそう思っているのだが―二、三年前に取り壊されて、その跡地は駐車場になってしまった。
山梨県へ疎開した東山魁夷画伯の立派な美術館が長野にあり、長野県へ疎開した杉山寧画伯の美術館が戸倉に無いのはやっぱり淋しい。
E橋本邦助画伯の事である。橋本画伯は世間的には、あまり有名ではないけれど、明治40年に開催された東京府博覧会で2位に入賞している〈一等賞は無し〉。
3位に「青木繁」の「名作」「わだつみのうろこの宮」が入っている事実から考えると橋本画伯の技倆、魅力がお判りいただけるのではないかと思う。 画伯は美校の西洋画科を卒業した後、パリへ留学するのだが、帰国してからどう云うわけか日本画を描き始め、洋画の仲間からも日本画壇の両方から敬遠されて、独自の道を歩き始めるのである。
私の父、竹迷和尚が大正元年に出版した処女作「山水と人物」の装幀と挿絵を橋本先生が描いておられる。
父と橋本先生が何処で知り合い、仲良くなったのか私には分からない。
父の本の出版費用を出してくださったのは、「いろは牛肉店」のお上さんの「萩原亀さん」と云う方である。「いろは牛肉店」は、有名な木村莊八画伯達、御兄弟のお父上である。
『番頭一代』の作者・たかはし たみを氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。
『坂井みつさんへの手紙』<7>(09年5月15日付)
善光寺門前藤屋旅館の所で「信濃路」と云う小さいけどセンスのいい「おみやげ」屋さんをやっていた「横井洋一氏」が、津村家の後見人をしていた映画評論家の津村秀夫氏と交渉をしてくださっていたのだが―ものの見事に断られてしまったのである。
その後、笹屋ホテルの若主人坂井永一氏や「富貴之園」と云うお茶屋をやっていた神保和男氏達、温泉の若い人たちが募金をして千曲川堤防に「千曲川」碑を建立し、詩集の復刻版を発行したのである。
津村未亡人へのアプローチなどは戸隠高原越水ケ原のロッヂ「タンネ」の「里野龍平さん」のお世話になった。
昌子夫人、お嬢さんの初枝さん、お孫さんも出席してくださって、「千曲川碑」の除幕式が行われたのは、昭和59年6月24日であった。
笹屋ホテルと津村信夫さんのご縁を結んでくださったのは、戸隠中社の宮司であった久山家であるとお聞きしている。坂井家と久山家も縁続きであると云うのだが詳しい事は分からない。
昔、国鉄出身の「森田義衛」さんが参議院議員に立候補した時、久山家の息子さんで交通公社に勤めていた郁夫さんと二人で、「親戚」だからと「選挙運動」に歩き廻ったのを覚えている。
D戦争中、日本画家杉山寧先生御一家が疎開していたのは、千曲川畔にあった笹屋ホテルの別荘である。
お弟子さんとかマネージャーのような人まで入れると10人位の大所帯であったらしい。稲荷山の古美術商清水氏の紹介であったと云う。
杉山先生は東山魁夷さんと並び称せられた日本画家の大家であるが、娘婿の三島由紀夫氏の事件以後「謹慎」されて、第一線から退いておられたようである。
三島夫人の瑶子さんは戸倉の国民学校の3年生に編入して通っておられたとの事なので、同級生の方の御紹介でお電話をさし上げたら、「佐良志奈神社境内へ杉の落葉を拾い集めに行ったとか、千曲川原に蛍が乱舞していて、この世ならぬ美しさだった」と、電話口で特徴のあるハスキーな低い声で話してくださった。
由紀夫氏好みの有名なスペイン風のお邸へお伺いするお約束をしながら、瑶子さんが意外に早く亡くなられてしまった。残念であった。
『坂井みつさんへの手紙』<6>(09年5月5日付)
正木先生(不如丘)が東京大学を卒業して、医師として最初に赴任したのが「福島三郡病院」であり、同じ頃、福島県庁に勤めていた船田中氏〈衆議院議長作新学院長〉等と相談して「東北芸術協会」を結成し、中央から文人墨客を招き、講演会、画会、歌会、句会などを開催したのだが、その事務局長となったのが「但馬屋呉服店」の長沢専助、雅号仙蹊だった。
私の母キミは父、仙蹊にくっついて、東京から到着するお客様を福島駅にお迎えに行ったのだそうだが―その中に、竹久夢二もいて、サインをしてもらったとか、絵葉書をプレゼントされたとか―よく自慢していたものである。
Bの志賀直哉についてお上さんは「私がお嫁にくる前だからねェ」と、おっしゃっていたが、何か手紙とか書いていたものとか滞在していた時の話など「ありませんか」とお聞きしていたのである。
昭和30年代、笹屋ホテルのパンフレットを作るので「志賀直哉ゆかりの宿」と入れたいと思って、志賀家へお願いの手紙を差し上げた事があるのだが―お許しをいただけなかった。
Cの津村信夫さんの「千曲川」の詩は、高校の教科書に掲載されていたので、若い人たちの愛誦詩の一つになっていたのだが、私など、御粗末なレベルの低い番頭の考えとしては、有名な詩の中に「戸倉上山田」の地名が出てくるので観光客誘致に使わないのは「おかしい」「もったいない」とあまり純粋でない動機から、津村信夫さんの詩を「おみやげ」ものの「のれん」や「絵葉書」にして、その売上げの一部を積み立てて「千曲川」碑を建てようと画策した事があった。
『坂井みつさんへの手紙』<5>(09年4月25日付)
中山晋平作曲、正木不如丘作詞の新民謡「千曲小唄」は、全国各地で発表された新民謡の中でもユニークな作品である。
晋平先生が「力を入れ過ぎた」ために「ちょっと難しい曲になってしまった」と坂井修一氏がおっしゃっていた事がある。
この「千曲小唄」の絵葉書が売り出されたのだが、その絵を描いたのが当時人気絶頂の「竹久夢二」だったのである。
夢二は昭和9年9月1日、富士見高原療養所で院長の正木先生に看取られ短かく烈しい生を終えたのだが、「千曲小唄」の絵葉書を描くために昭和5年笹屋ホテルに泊っているのである。
夢二が戸倉温泉で作った俳句の一つに「馬洗ふ水の迅さや青嵐」の名句がある。あまり知られていないと云うか、観光的に利用されていないのだが、もっと大事にされていいのではないかと私は思っている。
戸倉町の柳沢穂積先生の家には御尊父の和恵先生が夢二に書いてもらったと云う「跫音(あしおと)を待つ夕暮れや萩の花」の短冊があるのだが―この句は戸倉で作られたものではない。
夢二はこの下句が気に入っていたらしくて下五の「季語」や「花の名前」を色々変えて、全国各地で頼まれると書いているようである。
新しく架け変えられた「千曲川」を渡って温泉へ入る大正橋に、夢二の絵葉書の絵と千曲小唄の一節が掲げられているのは大へん嬉しい事ではある。が、「馬洗う」の句が使われていないのは、ほんとうに「惜しい」と私は思っているのである。
戸倉駅前国道18号線に面した「坂井銘醸」の土蔵を利用した「酒造コレクション」の中に「夢二記念館」がある。
夢二の絵が展示されているのだが、その作品の多くは正木不如丘先生の収集されたものであり、私の母の実家福島市の長沢仙 翁の寄贈したものもあるのである。
『坂井みつさんへの手紙』<4>(09年4月15日付)
私としては、この「露伴別荘」を現在地でなくても、何処かへ移築して「温泉の観光資源」として、利用出来ないだろうかと思っているのだが、無位無冠無職の私のお願いなど、誰も相手にしてくれないのが現実なのである。
Aの正木不如丘先生は東大出のお医者さんであり、小説家としても有名な方である。
笹屋ホテルの坂井家の遠縁で、上田市出身とお聞きしているが―詳しい事は分からない。私は笹屋にいた間、一度もお会いしていない。
笹屋ホテル坂井家の分家、坂井寛三郎家は上田で新田の開発をし、銘酒「坂泉」を醸造していたので、上田に親類縁者は多い。坂井家と正木家との正確な関係を「お上さん」にお聞きしたかったのである。
昭和初期、戸倉村の青年会が新民謡を作ろうとした時、笹屋の御主人坂井修一さんは慶応大学の学生だったと思うのだが、正木先生に作詞を依頼し、作曲を「中山晋平先生」にお願いしたのである。
中山晋平さんは笹屋の親類の長野市西之門の「よしのや」藤井哲造さんの「実兄」である。
哲造旦那さんは、「よしのや」の味噌醤油部門を担当されていたのだが善光寺門前、大門町の旦那衆の一人として文化活動にも活躍されており、新潟出身の日本画家「長井雲坪」さんの後援をし「蘭の名手」と云われる「雲坪」を世に紹介した功労者のお一人である。
哲造旦那さんの御子息は洋画家の「藤井令太郎」氏で、武蔵野美大の教授として後進の指導に当り、「信州美術会の会長」として貢献された方なので、名前を知っている方は多いのではないかと思う。
笹屋ホテルのロビイには令太郎画伯の代表作「バラ」の200号の大作が展示されている。
『坂井みつさんへの手紙』<3>(09年4月5日付)
露伴先生の後妻さんは坂城町の御出身で、戦争中幸田一家は坂城へ疎開しているのだが、(文さん姉弟と後妻さんの関係は「うまくいってなかった」ようで「冷めたい」ものであったらしいと伝えられている)露伴先生は趣味が「釣り」と「写眞」だったので千曲川のほとりに別荘を建てたらしいのである。
2階は露伴先生の書斎、仕事部屋が一つだけ、千曲川に面して大きな円い窓が開いていた。地下に4室、玄関、浴室、台所で写眞の現像をする「暗室」が2階へ上る階段の下に作られていた。
東京小石川に在った露伴旧居「蝸牛庵」を知っている友人江田和雄氏も、この別荘を見に来てくれて「よく、似ている」と感心していたが、大正何年に建てられたのか、設計とか、大工さんは誰だったのか、建築費は幾らかかったのか―全然分からないのである。
文さんは「露伴は行かなかった」と云われているらしいが、隣家の「滝の湯」旅館の御主人「武井侑」氏は「露伴先生は、よく来ていたよ」とおっしゃっていた。
当時の事を知っている近隣の方が現存していないので、確かめようがないのである。 笹屋の社宅になる前の所有者は「坂井銘醸(株)」の村尾留吉氏で、留吉氏の娘さん夫婦が住んでおられたのである。この村尾豊治さんも故人になってしまった。
『番頭一代』の作者「たかはし たみを氏」は本名「高橋民夫」。千曲市戸倉在住で77歳。
『坂井みつさんへの手紙』<2>(09年3月22日付)
いま、あえて私が書こうとするのは―いずれも50年余も前の話であり、関係者の方もほとんどお亡くなりになっているのだが、誤って伝えられている事が多いので、私の知っている範囲で訂正をしたい、なるべく正確に伝えたい―と云う思いがあるのである。
@の幸田露伴の別荘は、千曲川堤防の近くにある木造二階建瓦葺の古い建物である。笹屋の社宅になっていて昭和36年から43年まで私と母と女房が住み、二人の娘が生れた思い出深い家である。
入居してみたものの、あちこち立てつけも悪いし、寒いので修理をしたり改造をしたいと考えたのだが「幸田露伴の別荘」だと知って私は、甲府中学時代の恩師である早稲田大学、上智大学教授で「明治大正文学」の権威であり泉鏡花の第一人者の村松定孝先生にお願いして、「幸田文さん」の御了解を得ようとしたのだが、村松先生に対して「幸田文さん」の御返事は「露伴とは関係の無い建物ですから、御自由にお直しください」とのお手紙だったそうである。
(たかはし たみを氏は千曲市戸倉在住。77歳)
『坂井みつさんへの手紙』<1>(09年3月8日付)
笹屋ホテルの「お上さん」坂井みつさんと日赤上山田病院に同じ時期に入院していた時、私が昔の事をいろいろお聞きしたので、「急にいっぺんに聞かれても困る」から箇条書にして質問をするように云われたのが、平成13年8月であった。
お上さんはその後、長野市民病院に転院して手術をなさったりしたが、平成15年5月24日92歳でお亡くなりになった。
私が質問をした手紙を、お上さんがお読みになったかならなかったか、今となっては分らないが、御返事をいただけなかったのは確かであり、何よりも残念な結果であった。
私が「お上さん」にお聞きしようと思っていたのを、とりあえず箇条書にしてみると―。
@幸田露伴別荘の事A正木不如丘、竹久夢二、中山晋平三先生の事B志賀直哉と「豊年虫」の事C津村信夫の「千曲川」の事D日本画家杉山寧先生と三島由紀夫夫人になられたお嬢さん、瑤子さんの事E画家椿本邦助さんの事F芥川賞作家石川淳さんの事その他G株式会社戸倉温泉の事H河鹿荘喜久の湯松橋氏住宅など笹屋と地続きの土地建物取得の件I戸隠の行者姫野先生の事Jお上さんの実家信州新町の塩入家や信州中野の山田家の事K芸者蘭子さんの事―などである。
どれ一つ取り上げても400字詰原稿用紙10枚や20枚は書ける材料であり、私にとって興味津々たる話題なのだが―お上さんははたして話をしてくださっただろうか―はなはだ疑問である。
「お上さん」は口が固いと云うか余計な事は喋らない方だと、私は思っているのだが、だからこそお聞きしたかったと云えるのである。
旅館のお上さんや支配人に「守秘義務」はないけれど、職業上知り得たお客様のプライバシーに関する事を喋るのは営業上マイナスになるだけで、何のプラスもメリットもないのである。
(たかはし たみを氏は千曲市戸倉在住。77歳)
『お上さんへの手紙』<9>(09年3月1日付)
戸倉の「白鳥園」の支配人をしていた佐藤さんは、箱根の富士屋ホテルの副支配人をしていた慶応ボーイですが、相談をしたところ「箱根の天成園」の支配人になられていて、「天成園」の「東京案内所」をやってくださいと直ぐアパートの手配などしてくださいました。
笹屋のオープンの時、ヘルプに来てくれた長野の山の神の宮下氏の友人の本間氏〈犬山の迎帆楼の奥さんの弟〉も心配してくれて、館山寺温泉「ホテルニュー大東」の営業部長にと云ってくれました。
「いろは」へ行けと云う交通公社の沢さんと笹屋の意向は強かったのですが、最終的には清風園の正村支配人〈後に常務、社長〉が解決に乗り出してくださって、話がつき、昭和43年10月、別所温泉の花屋ホテルに勤めました。
花屋は清風園の飯島社長のお兄様が経営されていました。
清風園は昭和44年に蓼科高原に「女神湖ホテル」を建設する計画を進めていたので、その支店の「支配人」にと迎えてくださったのです。
笹屋の支配人から清風園の正村支配人には、「高橋は金遣いが荒いし、女グセが悪いから気をつけるように」と御親切な引き継ぎがあったそうです。
「金と女」の問題については書き始めると長くなりますので、また次の手紙に私の「云い訳」を書きます。
ほんとうに、16年間お上さんには御心配をおかけし、申し訳なく思っております。お元気な中に「云い訳」を聞いていただきたかったと残念に思います。
〈続く〉
(次号から「坂井みつさんへの手紙」を掲載します)
『お上さんへの手紙』<8>(09年2月22日付)
それでもガマンしていたのですが、笹屋の東京案内所に採用された坂城高校を出たばかりの若い子が私の部屋の住人になり、私が「笹屋の副支配人」をしていた事を知らないので笹屋から指示されてきたのか、私の云う事は全然無視して知らん顔なので―私はアタマに来て笹屋をやめることにして、42年8月「八重洲大飯店」の給料をもらって宮本氏に「信州へ帰る」と云って東京を離れました。
おふくろや女房に行く先を連絡しなかったので、おふくろは一時は錯乱状態だったそうです。
愛知県安城市の叔父の家、岐阜県美濃市の父の育ったお寺、奈良市柳生家の菩提寺などに何泊か滞在をして、京都三条の「いろは旅館」へ行きました。
京都観光バスの田中部長に事情を説明し、田中部長が交通公社の沢さんに連絡をとって、笹屋との交渉役になってくださいました。
笹屋をやめて「京都のいろは旅館」にお世話になると一旦は決まったのですが、「いろは」の方が「支配人」ではなくて「副支配人」だとか「社宅」も用意してなかったりと約束が違うのと、沢氏が笹屋の社長と話をして、「五年後に笹屋に戻す」と云い始めたので、私は何にも聞いていなかったのでアタマへ来て、「いろは」行をやめました。
番頭一代『お上さんへの手紙』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神胡ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)、「女神胡ホテル物語」など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行している。
『お上さんへの手紙』<7>(09年2月15日付)
県職員だったK氏が「総務課長」として入社し、半年位の中に総務部長になり支配人になって、社長を補佐しすべてを取り仕切るようになりました。 坂井支配人は社長の同級生でもあり永年の功労者でしたから「常務」に格上げされました。
私は「副支配人」から「営業部長」とかセールス関係の「渉外部長」になり、「ホテルの業務にタッチしてはいけない」「毎日外へ出てセールスに歩け」「経費は認めない」などと「いじこじ」されて、長野の大門町に出店した中国料理「杏苑」のお手伝いに行かされました。
黒い蝶ネクタイをしてボーイの眞似事もしました。 宴会の後片付けも皿洗いもしました。
長野市内の東急観光の営業所長大下氏とは、なんとなく気が合っていたので毎日立ち寄りました。
県庁の中にあった交通公社の分室で時間をツブしました。「杏苑」の宴会のない夜は、権堂の秋葉神社の近くの「バー リップ」のカウンターで飲んでいました。
名前は忘れましたが「杏苑」にアルバイトにきていた人がママさんで、気さくに安いお勘定にしてくれました。
その中に昭和42年の夏頃でしたが「杏苑」の宮本氏が東京の「八重洲大飯店」の開業に招かれて行きまして、中国料理店のオープンからタッチして「マネージメントを勉強するように」との社命で、私は上京しました。
上京してみると「八重洲大飯店」の社長は韓国出身で日本に帰化した野田さんと云う方で、都内で自動車教習所や貸ビルなど幾つかの事業をなさっている凄腕の方。
私は單なる普通の従業員で「杏苑」との業務提携など知らないと云う態度で「パントリー要員」にされまして、朝から晩まで皿洗いでした。
笹屋で借りてくれたアパートは駒込にあり4畳半でした。バス、トイレ無し、ジーパンにゴム草履をつっかけて山手線で通いました。
『お上さんへの手紙』<6>(09年2月1日付)
9分9厘入社確実の最終段階で「民友」の社長を怒らせてしまったのは、「八光の坂井社長の」「民友」社長への推選状の宛名が、どうしたわけか「福島民報」の社長になっていたのです。
「民報」は毎日系で福島県内でトップ紙。それを「民友」が追いかけていて、その競争は激しいものだったのです。
坂井社長の「カン違い」で、私の「民友」の新聞記者になれると云う夢はあっけなくパアになりました。
昭和36年に私は、奈良にいた老母を信州へ呼び寄せ、笹屋ホテルの社宅に入りました。 この社宅は、幸田露伴が坂城町出身の後妻さんの為に、千曲川の畔に建てたものです。 昭和36年11月22日私は坂井修一、みつ御夫妻の媒酌により笹屋の分家である坂井忠雄家の次女敏子と結婚しました。
母を呼び寄せ、お嫁さんをもらって、身を固めた私は信州に住みつき戸倉に骨を埋め、笹屋に一生御奉公しようとガラにもなく殊勝な気持になっていたのです。
ところが人生って云うのか世の中と云うのか、面白いものでこの結婚を境にして私に対する風向きが変わってきたのです。
昭和38年から39年にかけて笹屋ホテルは昭和37年当時は年商5千万円位だったのに2億5千万円をかけて新館の増築に踏み切ったのです。
が、建築設計の問題などで私が生意気な意見を出したのが社長のカンに触ったのか―建築業者との「見積り合せ」にも地鎮祭にも呼ばれませんでした。
『お上さんへの手紙』<5>(09年1月25日付)
M(つづき)甲府は甲府中学と山梨学院に通学していましたし、父が中巨摩郡と北巨摩郡の禅寺の住職をしていましたので、知人友人が多かったし、福島は母の生家があり、歿落はしていましたが「但馬屋」と云う呉服屋をやっていましたし、イトコたちも多勢いました。
一度は旅館へお客様を送りこむエージェントをやってみたいとも思っていましたし……。
馬場さんは「箱根高原ホテル」や「甲子高原楽山荘」の副支配人のポストも用意してくださいました。
森永乳業と組んで全国的に「ホテルサンフラワー」チェーンを展開するとかいろいろプランを持っておられた頃なので、スタッフの一人として必要だったのかもしれませんが、豪放な人柄でしたが「お子様」がなかったので、云いたい放題、勝手な事を云っている私が面白かったのかもしれません。
城山三郎が「臨3311列車に乗れ」と云う作品で馬場さんの生涯を描いていますが、向日葵の好きなチョッピリ淋しがり屋のすぐれた経営者に可愛がっていただいた事を、私は今も感謝しています。
Nもう一つは「福島民友新聞」の話です。福島の叔父が読売広告社の福島営業所長をしていて、読売系列の「福島民友新聞」に話をしてくれて社長のO・Kがとれれば入社出来るところまで行ったのです。
が、読売新聞に八光活字の鋳造機を納入した関係で「民友」の社長が八光の社長、笹屋の御主人を知っているので「坂井さんの推薦状があれば」と云う話になりました。
『お上さんへの手紙』<4>(09年1月18日付)
IJTBの上諏訪支店長をなさった藤井さんから蓼科白樺湖方面は将来発展するから「来ないか」と声をかけられ現地を見に清風園の大谷さんの運転する車で行ったのですが、当時は「茅野」から高原へ上る道もひどいガタガタ道で、旅館も自家発電の状態だったので、びっくりしたのを覚えています。
J農文協の八木林二さんからは栂池に山荘を建てるので「支配人として来てほしい」と話がありましたし、横井洋一さんからは島崎藤村ゆかりの馬籠の「四方木屋」を頼むと云われました。
KA・A・P熱海美術印刷の土屋金康社長から、県内では「白骨」に行ってくれませんかと打診された事があります。
L権堂の料亭「深秀桜」の関谷さんが上山田温泉に「ホテル春秋」をオープンした時も話がありました。
ホテル春秋は今までの上山田にはない上品な数寄屋風の建物で、伊東深水画伯の命名で玄関の「ホテル春秋」の字も深水画伯の筆でした。
こう云う話が全部お上さんの耳に入っていたかどうか、分かりませんが、「笹屋」としては「不愉快」な話だったろうと思います。
私にしてみれば「軽々しく動きやすい」人間だと見られていたのかと腹立たしい一面と、外では高く評価されていたんだなァと云う、誇らしげな面と二通りの感じがありました。
M私が自分自身で「笹屋」をやめて行きたいと思ったのは、近畿日本ツーリストの馬場専務〈副社長〉に「甲府か福島の営業所を任せる」からと云われた時です。
『おさんへの手紙』<3>(08年12月21日付)
Cお婿さんにと云う話は、交通公社の沢さん〈JTB上田支店長〉から、幾つも持ちこまれました。
B温泉のi屋、S温泉のSホテル、M温泉のMホテルi館など。Sホテルは親戚の造り酒屋を通して笹屋がオーナーである坂井酒造場の村尾道孝さんに照会があり、道孝さんから、お上さんにお話があったと思います。
また沢さんからは浅草の料理旅館「S」の話もありました。やり手の有名なお上さんのおられるお店で、先方は私には内緒で「下見」に来ていたそうです。
D清風園の飯島安雄社長からも、二、三お話がありました。その中の一つは同じ温泉の中の小さいけど、繁昌していた旅館ですが―現在はありません。
やはり有名なお上さんの宿でした。
E戸倉駅前にあった笹屋支店の福田さんは、一時期おみやげのお菓子の製造販売をしていたので、お得意さんである松本駅前の「おみやげ屋」さんで「お婿さん」を探しているから行かないかと奨められました。
こう云う話は私が自分で売りこんだわけではなく、自分でもよく判らないのですが「おとなしく」て「婿型」の性格だと思われていたのかなァと不思議に思っています。
それから「仕事」の方で誘われたケースは、これも年代も順序も不同ですが幾つもありました。
F赤倉観光ホテルの大倉社長さんがホテルオークラの新庄常務と年に1、2回お見えになられて、「ホテルオークラでホテルマンの研修をして赤倉観光ホテルへ勤めないか」と云われた事がありました。
G温泉の芸寮組合の専務理事の清水忠さんは繁の家の御主人でしたが、後で知ったのですが前身は「富松さん」と云って革新政党の書記長をしていた方で、繁の家のお上さんに惚れて婿入りしてきたのだそうですが、私に「中国連合通信社の日本支局」へ勤めないかと云ってくれました。
繁の家の若い芸者さん二人が毎日笹屋のお座敷へ来ていましたから、私もその芸者さんたちと友達みたいになっていたので、繁の家の親父さんにはよく御馳走になりました。
H大阪の新歌舞伎座や横浜や奈良のドリームランドを経営していた松尾國三さんが戸倉上山田温泉に旅館を建てたいとお見えになられた時、私があちこち御案内したのですが「ウチの会社へ来ないか」と誘われました。
(筆者は千曲市戸倉在住)
『お上さんへの手紙』<2>(08年12月14日付)
後になって「そんな事を云ったかなァ」と旦那さんは忘れてしまったと云っておられたが、云われた私はショックをうけ、その言葉が深く胸につっかかっていました。
その言葉が動機だとは云いませんが笹屋にお世話になっていた16年間、いつも私はチャンスがあれば、「笹屋ホテル」をやめて他の土地へ行こうと考えていたと思います。
詳しく書くと長くなるので、そんな出来事を箇条書きにしてみました。
@ 昭和27年、東京へ逃げて行き、竹葉亭のお上さん、別府ぬいさんにお話をして銀座の「たくみ民芸店」の住込店員に使ってもらう事になりました。
「笹屋を正式に円満にやめておいで」と別府さんの小母さんに云われて信州へ戻ったのですが―結局、笹屋のお許しが得られず東京へ行けませんでした。
A 旦那さんの友人の松井政平さんが東京虎の門で「新憲法普及協会」の専務理事をなさっていて、「東京の事務所へ来い」と話がありました。
松井さんは昭和30年頃、上田へ帰郷されて「信州民報」を日刊誌にして活躍されましたが、「お子さん」がなくて私は「養子」候補の一人であったらしいのです。「お前、あそこへ婿に行け」なんて話も二、三ありました。
B 戸倉上山田温泉の芸寮協同組合の理事長「高の家」の飯塚七郎さんは、業界では有名なボスでした。上京すると浅草の「たんぼ」と云う小さな旅館に滞在して「競馬」に通うのが大好きでした。
東京のナントカ組の若い衆がでっかいアメリカ車でお迎えにきて、競馬場へ行きました。儲けるより損をしてたのが多いと思いますよ。
その飯塚七郎さんから「向島の芸者屋の婿になってくれ」と頼まれた事がありました。
もちろんお断りしましたが後になって、私の祖父は浅草の松屋デパートのあたりにあった船宿「田川屋」の番頭をしていて、お墓は東向島の多聞寺にあります。浅草や向島になんとなく御縁があったのかもしれません。
(筆者は千曲市戸倉在住)
『お上さんへの手紙』<1>(08年12月7日付)
平成15年5月27日、笹屋ホテルのお上さん坂井みつさんがお亡くなりになった。91才であった。
七人の子どもさん達に見守られて他界へ旅立たれていったのだが天寿を全うした幸せな一生であったと私は思っている。
平成13年の8月私は、糖尿病が悪化して長野日赤上山田病院に入院していたのだがその時、お上さんも入院されていた。
笹屋ホテルをやめてから33年は経っていたのでお見舞いと云うより、御挨拶に病室へお邪魔していろいろなお話をしたのだが、何しろ昔の話、古い話ばかりをあれこれとお聞きしたものだから、お上さんもお困りになって「質問事項をメモにしてよ」とおっしゃられた。
「お上さんに手紙書きます」と云って失礼な質問をした私は、病室を辞したのだが、90才になろうとしているお上さんの記憶力の確かさを、あらためて感じたのであった。
実際には、とうとうお上さんへの手紙は出さなかったのだが―書きかけの手紙―お上さんへの「云い訳」の手紙を読み返してご冥福を祈っているのである。
お上さんへの手紙
私が笹屋ホテルをやめてから今年で40年経ちました。
笹屋ホテルにお世話になっていたのは昭和26年11月から昭和43年8月までの期間ですから16年間と云える事になりますか…私の20才から36才までの間です。
お上さんは39才から55才、女性としてもっとも美しく輝いていた年代と云ってもいいかもしれませんネ。
昭和27年の4月、永平寺へ修行に行く予定であった私は心身共におかしくなっていて、ノイローゼと云うのか神経衰弱と云うのか―ブロパリンを嚥んで自死を計りました。
御主人の坂井修一氏は笹屋の名誉を傷つけたと烈火の如くお怒りになり、笹屋から追放しろと云われたそうです。
が、私の母が御主人の御母堂坂井千代さんに何とか私を笹屋ホテルで使ってほしいとお願いをして、従業員として使っていただくことになったのです。 食客から「雇い人」になった私に対して、旦那さんは「料理番になるんなら、一生メンドウ見てやるが、番頭じゃなア」とおっしゃった。
(筆者は千曲市戸倉在住)
『松井政平さんの事』<12>(08年11月23日付)
信濃毎日新聞発行の『信州の鉄道物語』のコピーには、「大正九年一月五日、資本金六十万円の上田温泉電気軌道株式会社が誕生した。塩田平に鉄道を敷こうという遠大な計画のもとに小県郡中塩田村〈現上田市〉の高野沖太郎、小県郡泉田村〈現上田市〉松井庄作の二人が当時、信濃電灯会社の役員小島大治郎〈上田市〉の協力を得、発起人となって設立した鉄道会社である。」後略―の記事が載っている。
それから、私が松井さんの奥さんにお聞きした話がメモされた紙片があった。
「松井は明治34年生まれで上田中学校卒業後『中部日本新聞』に入社し、昭和7年『読売新聞』に移った。初任給は70円だったが翌年から百円になった」。
続けて「社会面の署名記事や囲み記事を書き座談会の司会などもしていた。社会部のデスクを勤め、出版部長として活躍、読売映画社の部長、局長になったが昭和20年退社」―とメモに記されている。
松井さんの奥さんは御主人の死後、緑ヶ丘の家で「お茶の先生」をしながら10年位過されたとの事で、「仲の良かったお姉さんと一緒のお墓に入りたい」と云っていたので、その遺志を尊重して神奈川県葉山町の荻野家の墓場に葬られたそうである。
松井さんのお墓には戒名がなかった。
お二人が別々のお墓に眠っているのは私から思えばちょっと淋しいような気がするが、近代的な自由人でお互いの人格、個性を認め合って、仲良く暮らしていたお二人にとって、死後の世界もまた拘束されない自立したお墓の形式が一番相応しいのかもしれないと、肯定して、お墓を立ち去ろうとすると「おいおい生意気なことを云わずに、また来いよ」と松井さんの声が聞こえたような気がしたのである。
ふり返ってみると春の陽射しが柔らかく松井さんのお墓に降りそそいでいたのであった。「終」
『松井政平さんの事』<11>(08年11月9日付)
笹屋ホテルをやめる時は当然松井さんに相談をし、報告をし、松井さんに「やめるな」と説得されたのだが、私は松井さんのご好意にも背いて笹屋ホテルをやめたのである。
松井さんが御病気で重篤であるとお聞きしたのは、昭和44年の1月か2月だろうと思う。
緑ケ丘のお家へかけつけたのだが、直子夫人は「病気でやつれちゃって見る影もないから、顔を見ない方がいいよ。元気な時のいい顔を覚えておいてネ」とおっしゃって、和室で昏睡状態の松井さんに会わせてくださらなかった。
松井さんの甥御さんである「原峠保養園」の松井正先生にお手紙を差し上げて、松井さん御夫婦にお聞きしていた「松井家」について御質問させていただいた所、御丁寧な御返事をいただいた。
そのお手紙の一部を引用させていただくと、
@松井さんの「祖父庄作は旧小県郡泉田村村長、小県郡会議長を歴任しております。庄作―広左衛門―祐達―広達―〈祐達、広達は医師であります〉墓石に医業に從事と刻まれていました。
A緑ケ丘の住居については、表札は叔母直子の姉の嫁ぎ先の「永野」になっている由です。
B泉田村宮島地籍は同封の地図を御参照下さい。―と書かれており、資料として信濃毎日新聞発行の「信州の鉄道物語」のコピーが入っていた。
『松井政平さんの事』<10>(08年11月2日付)
私は時期をみて、松村さんに事情を聞きたいと思い、私の名誉を挽回し潔白を証明しようと考えていたのだが、松村さんは平成3年脳硬塞で倒れ、平成11年79才で亡くなられてしまった。私は「汚名」を晴らせずにあの世へ行くのである。
話が暗くなってしまったので話題を変えると、松村さんはチャキチャキの江戸っ子で、浅草の女剣劇の座長浅香光代さんととても仲が良くて、笹屋へ浅香さんを何回か御案内してきたらしい。
お二人とも下町育ちで小学校が同じだったと聞いたような気もするのだが、はっきり覚えていない。
私は松井さんが坂井修一氏との友情によって笹屋の営業にプラスになる応援をしてくださった事を縷縷書いてきたのだが、信州民報として、上田への貢献をしたのは何だろうと考えてみた。
一番先に思い出したのは、上田をこよなく愛し「ふるさと」を大事にしようと、いつも云っていた松井さんは上田のシンボルである「太郎山登山」のキャンペーンを行い、市民運動にまで盛り上げた実績がある。
これも詳しい資料がなくて、書けないのは残念であるが松井さんの提案で「太郎山登山」が活溌になったのを覚えていらっしゃる方も多いと思う。
私は昨年(2002年)3月、長野日赤病院へ入院したのだが、その時、どう云うわけか、松井さん御夫妻の顔が目の前にチラチラしてしきりにお二人のことを思い出した。
考えてみると、随分お世話になっていたのに、亡くなられてから一度もお墓詣りに行っていなかったのに気がついた。
退院してから松井さんのお兄さんの鳳平先生が、上田の「原峠保養園」長さんをなさっていたのでお電話をおかけして「松井政平さん」のお墓は何処にあるんでしょうかと、お尋ねしたところ、鳳平先生の御子息の松井正先生から御返事をいただき、4月3日に「向源寺」へお伺いしたのである。
そのお墓で、松井さん が昭和44年4月13日に亡くなられて、年令は68才であったと分かったのである。
私がまさか、やめると思っていなかった笹屋ホテルを退社したのが昭和43年の秋であり、44年の春は別所浅草の花屋ホテルにお世話になっていて9月にオープンする「女神湖ホテル」の開業準備にたずさわっていた頃である。
『松井政平さんの事』<9>(08年10月26日付)
私にとって信州民報の婦人記者・潮牧江さんは「短歌」の方の恩人なのである。女流歌人として有名な潮さんは上田市内で「千曲流域」と云う合同歌会の幹事さんをしていて、私も末席を汚させてもらった。 そして昭和37年、斎藤史先生が「原型歌人会」を結成し歌誌「原型」を創刊した時、私は潮さんに奨められて入会をした。
創刊号に私の作品が掲載されているのは、潮さんが私の短歌を投稿してくれたからである。
斎藤史先生との絆を結んでくださった潮さんは、私にとって大切な人であり、今でも感謝しているのである。
また、松井さんを通じて松村康代さんと姉弟のような親しい間柄になり、いろいろお世話になった。営業の第一線で苦労を分かち合った私たちは、「戦友」のような意識に結ばれていた。然し、その関係は予想外の出来事でピリオドを打った。
それは私が笹屋ホテルを退社する原因の一つとなった「仮払金未清算」問題である。私が全国各地に出張し、セールス活動をした時の経費の「領収書」を松村さんに一括して預けていたのだが、その領収書を松村さんが「紛失」してしまって私が「使いこみ」をしていたと疑われたのである。
私は昭和42年、43年「八重洲大飯店」に出向していたので「仮払金」を受取っていないし、セールスにタッチしていなかった。
身に覚えのないおかしな話なのだが私が笹屋ホテルを退社した後で「高橋氏は使途不明金があって解雇された」とか「数百万円の業務上横領をした」との噂が流れていた。
『松井政平さんの事』<8>(08年10月19日付)
松井さん御夫婦から「お嫁さんをもらえ」「婿に行かないか」と何回か話があった。
今でも話のあったお店やお家の前を通る場合、なんとなく、お断りしたのが良かったのか悪かったのか、ちょっと気になる上田の町なのである。
松井さんに関して書いておきたい事はいろいろある。
@週刊読売の「温泉コンクール」と云う人気投票をして、戸倉上山田温泉が全国の温泉のベストテンに入り全国的に認められるようになった件。
A読売の主催で人気の高かった「囲碁の最強位決定戦」を、解説者の山田覆面子先生に働きかけて呉清源と藤沢九段の対局を笹屋で行った事。
B松井さんのフォードで上京し、読売の社会部長影山氏と代々木の「けごん」で会食し、いろいろお願いした事。
C週刊読売に掲載された「雷電」の作者尾崎士郎先生を松井さんが笹屋へ案内してきた件。
D読売旅行と笹屋の契約が他の旅館の反対で進まなかった時、松井さんが旧知の読売旅行の社長と直接交渉して契約が成立した事。
E読売映画社のスタッフを動員して「温泉開発者笹屋ホテル」の記録映画を16ミリか35ミリフィルムで制作した事。
面白い話が幾つかあるのだが「いつ、どこで、誰が、何をした」かが新聞記事を書く者の心得だと、いつも云っていた松井さんを思い出して、いい加減な事を書くとまた一喝されると思って、書けないでいるのである。
(「たかはし たみを」氏は千曲市戸倉在住で77歳。平成19年春〜20年初夏にかけて作った短歌作品集=第4集=『幻景抄』をこのほど発刊した)
『松井政平さんの事』<7>(08年10月12日付)
予定していた原稿が間に合わなかった時、信州民報東部町支局長の長沼太郎氏が「南子(なんし)」とか「染子(そめこ)」とかのペンネームを使って書いていた。
尾沼氏は旅行代理店「東信観光」の社長であり、草野球のジャッヂをしたり、カントクをして町の人達に愛されていた。
が、若い頃は徳川夢声の門下の活弁、活動写真の弁士で、浅草で人気を博していた人である。また「都々逸」の「二十六字歌」の家元でもあり作詞家であった。
彼の御自慢は、皇太子殿下が「浩宮」様時代にお付の宮内庁職員をしていた御子息のことである。
「火星人」のピンチヒッター「埋め草原稿」を書くようにと松井さんから厳命が下ったのは昭和35年、36年37年頃であったと思う。
「お前は山梨のお寺の息子だからペンネームは山梨寺夫で行くぞ」と一方的に命名されてしまったのである。
四百字詰2枚にまとめて書くのも、慣れない中は大変で10回分書いて届けても1つか2つしか採用されず、ボツになるのが多かった。
活字になったものを今、読み返してみると―ひどいものである。「他の原稿が間に合わないからしようがねェ」とブツクサ云い乍ら、松井さんが苦虫を噛みつぶしていたのが目に浮かぶようだ。
『松井政平さんの事』<6>(08年10月5日付)
車の運転は上田へ帰ってきてから車を買い、運転手さんを雇用して、そのドライバーを先生にして教習所へ通わずに運転免許試験にパスしたのである。
淡いグリーンのフォードは、白いタイヤでなかなかスマートであった。
私は松井さんは東大出の映画俳優、渡辺文雄氏に似ていると思っている。
背が高くて、がっしりした体格で足も長かった。いつもピンと折り目のついたズボン姿が印象に残っている。
茶色のツイードの上着、グレイのフラノのズボンなど案外、おシャレであった。K病院の院長夫人、K製作所の社長夫人など松井さんのファンの御婦人も何人かいた。
奥様の直子さんは東京の女子大出の才媛である。お二人の結婚はお見合いだったのか恋愛だったのか、聞き漏らしてしまった。直子婦人は細面の色白の「眼鏡のよく似合う」知的な感じの美人であった。
緑ヶ丘のお家へお邪魔するとハンバーグとかフィレカツを作ってくださった。セロリと玉ねぎをスライスした生野菜にドレッシングやマヨネーズをつけて食べたのも美味しかった。
笹屋ホテルの内玄関の屋根裏部屋に住み込んで家庭的な雰囲気とか、食事に遠ざかっていた私にとって、青々とした芝生を見ながら椅子とテーブルで食事をし、コーヒーや紅茶を飲ませていただいたのは、楽しく懐かしい思い出である。
松井さんは「信州民報」の「上田魂」と命名した囲み記事を毎日書いていた。
名前から考えてもわかるように明治生まれの男の硬骨漢ぶりを発揮した文章で、主義主張、良い悪いがはっきりしているので、同じ年代の人達に圧倒的に支持されていた。
もう一つ人気のあったのは「火星人」欄である。四百字詰原稿用紙2枚位の小さなスペースだが、読者が自由に寄稿出来る貴重な紙面だったので上田市内のいろいろな方々の意見や感想、提案が載っていて面白かった。
手許に資料が無いので、私の朧気な記憶で申し訳ないのだが―。 お名前を挙げてみると、馬場町の医師遠藤恭助先生、日新堂宮坂先生、胃腸科の宮下先生、上田製菓の土山吉次社長、大栄物産の永井大二社長、香青軒の田中友道社長。
上田市の観光課の係長というより学生時代は「全落連」で人気のあった「竹の家雀」師匠こと、益子輝之氏〈茶人小宮山宗輝の名前でも書いていた〉後に上田市立図書館長になられた平野勝重氏詩人の山崎庸子さん、和田龍酒造の和田社長、など多士済々であった。
『松井政平さんの事』<5>(08年9月28日付)
その後、上田城近くの上田市助役をなさった畑さんのお家に入ったが、最終的には上田市の高級住宅地である緑ケ丘に土地を購入し、笹屋ホテルの建築設計を手がけている東京の「新建創」友田先生に依頼して、平家建ての瀟洒な家を建てられた。
生涯一新聞記者の魂を持ち続けた松井さんの考えは「小さくても質の良い新聞を作って、上田の人達に読んでもらいたい」と云う固い決意となり、週刊か旬刊でタブロイド判で発行されていた「信州民報」の株を譲り受けて「月刊紙」に格上げをしてスタートしたのである。
長野県をカバーしている「信濃毎日新聞」を始め、読売、朝日、毎日などの全国紙、上田市と小県郡を主にした北信毎日新聞もローカル紙ではあるが、日刊紙である。
その他、週刊誌、旬刊誌のタブロイド判の新聞社が何社かあったので、商売として採算を考えたら誰もやらない事業にリスクを承知の上で、あえて「日刊信州民報」を発行したのは、新聞に対する愛着と情熱を持った松井さんならではの決断であった。
上田市の中心街原町通りから一本裏へ入った所にある大きな土蔵が「信州民報社」になった。
八光の活字鋳造機も搬入されて、印刷工場のある小さいけれど本格的な日刊紙「信州民報」がデヴューしたのである。社名も読売新聞のように横書きになり新鮮な感じだった。
社長兼主筆の松井さんと東北地方山形県下の朝日新聞の通信局の経験のある須藤紫水氏が記事を書いた。
婦人記者として小まめに町の情報を集めていたのが潮牧江さん、営業広告の男性が二、三人、会社経理の女の人と印刷関係の人が男女で5、6人総勢十二、三人のメンバーだったと思う。
松井さんは大きな木のデスクに座り、窓から太郎山を見上げながら原稿を書いていたが、同時に当事は珍しかった1950年型のフォードを運転して飛び廻っていた。
『松井政平さんの事』<4>(08年9月14日付)
この事務所には「松村康代さん」と云う女性が松井さんの秘書役として、勤務していたのだが、松井さん御夫妻は江戸っ子の、女性としては少し元気のよすぎるこの人をすっかり気に入ってしまって、娘のように可愛がり「お嬢々」と呼んでいたので、事務所に出入りする人たちも「松村さん」が松井さんの「養女」になると思いこんでいたのである。
松井さんは明治34年生まれ。松村さんは大正11年生まれだから、年齢的にも親子と云える関係だったのである。
その中に、どう云う事情があったのか、私はお聞きしていないので詳しい事は分らないが、昭和29年か30年に「新憲法普及協会」は解散し、松井さんは郷里の上田に帰ってこられたのである。
年齢的には50代初めの「男盛り」だから隠居して余生を愉しむわけでもないし、読売新聞時代、正力氏に見込まれて、出版部とか映画社とか新しい事業を任されて、軌道に乗せてきた実力を高く評価されている人なので、今度は何を始めるのかと、期待され色々推測されていたのである。
松井さんは、上田へ来る時、松村さんを連れてくるつもりだったらしいのだが、松村さんはお兄さんがいるのに、御母さんと一緒に生活していたので信州へ来るわけにもゆかず、困った松井さんは坂井修一氏に頼んで松村さんと八光電機の東京営業所に勤めさせてもらったのである。
当事は八光電機の事務所は内幸町の間(はざま)弁護士の事務所の前にあった。八光の方のスタッフは揃っていたので笹屋ホテルの東京案内所の仕事を松村さんにやらせようと決って、松村さんは信州戸倉温泉へ旅館の仕事の見習いにやって来たのである。
文部省や新憲法普及協会の有能な事務職員さんには、まるっきり勝手の違う温泉旅館の実習はめんくらう事ばかりであったようだ。
それでも彼女は、江戸っ子の意気の良さと、世話好きな明るい性格で旅館の従業員と仲良くなり、東京へ戻ると銀座二丁目の「全国第一級旅館連盟」金田氏の案内所に行き、旅館へお客様を紹介する「送客」の実務を体験したのである。
八光電機の営業所は、昭和30年に上野駅に近い御徒町の昭和通りに面した便利な場所に移転し、「笹屋ホテル東京案内所」も同時に仕事を始めたのである。
一方郷里の上田市へ引き上げてきた松井さんは上田駅前の岩城屋酒店の持ち家をお借りして、居を定めた。
(筆者「たかはしたみを」氏=本名・高橋民夫=は戸倉在住で77歳)
『松井政平さんの事』<3>(08年8月31日付)
その頃の旅館は、殆どが木造建築で、幾つもの建物が廊下で結ばれているような形式が多かったのだ。
最初から計画的に旅館を建てたのではなく、商売を始めて、お客様が増え、部屋が足りなくなるとあわてて地続きの裏とか横に客室を増築して営業するのである。
笹屋ホテルの場合も本館、別館、東・西別荘、東館、南館、乾荘などの客室棟と大広間、大浴場、婦人浴室など十数棟の建物があったので、全景の客室を(写真で)撮りたいと思っても撮れなかったのである。
現在ならば、クレーン車の上やヘリコプターから撮影するものだが―当時はどうしたらいいのか、思案投首で頭をひねっていたのを、松井さんは「鳥瞰図」という方法で、ものの見事に難問を解決したのである。
この「鳥瞰図」を使った旅館の案内図は全国各地の旅館に採用され、真似されて、一つの文化ショックを与え、流行になった感があった。
松井さんは、パンフレット制作だけでなく、新聞、雑誌に掲載する文案、図案、新聞広告など、笹屋の広告宣伝全般について、旦那さんの相談相手になって下さったのだが―それ以上に、旦那さんの工場(八光電機)の製品「活字鋳造機」を、読売新聞本社や系列の新聞社印刷工場に納入するよう働きかけてくださったのである。 私は、松井さんが東京から来る時、帰る時、戸倉駅まで送り迎えをし、お部屋でプランを練っていて、気分転換にお茶を飲む時など、お邪魔をして色々お話をお聞きしたものだ。
私の知らない大きくて広い世界が松井さんの話の中にあった。私が松井さんに興味を持ち関心を抱くので、松井さんとしても悪い気はしなかったらしく「高橋クン。宿屋の番頭になってもしょうがねぇから、東京へ出てきてオレの事務所に勤めないか」と誘ってくださった。
後になって分かったのだが、松井さん御夫妻には子供がなくて、「養子」を探していたので、その候補の一人に私もマークされたらしいのである。 松井さんは、昭和20年に読売を退社している。戦争中の記者活動に対しての「けじめ」みたいな心境であったのだと私は理解している。
そして、総理大臣の 田均代議士の知遇を得て、「新憲法普及協会」の事務局長に就任し、政府の外郭団体広報部門を担当する事務所を虎の門に開設して活動されていたのである。
『松井政平さんの事』<2>(08年8月24日付)
松井さんの作った「笹屋ホテル」のパンフレットは、当時としては、最先端を行く画期的なものだった。
縦25センチ、横30センチくらいの大きさで3ツ折か4ツ折にした。その表面に「浅間山の噴火」の写真が大きく印刷され、斜めに赤い2センチ位の帯が入り、そこに「笹屋ホテル」の文字が白抜きになっている大胆な図案だった。
お客様の目を奪った「浅間山の噴火」の迫力ある案内は、上田市在住の有名な柴崎高陽先生の作品で、当事としては破格の使用料を払って印刷許可を得たのだと松井さんにお聞きした。
デザイン料とか制作権料の話も私はその時、初めて松井さんに教えていただいたのである。
昭和27年は、戸倉上山田温泉にとって、全国的に名前が知られるようになった、国鉄の団体客車両の臨時列車がはじめて戸倉駅に入ってきた年であり、云わば、「温泉の観光元年」とでも云うべき記念する年であった。
「浅間山噴火の写真」のパンフレットは大好評であった。何千部刷ったのか覚えていないが「旦那さん」は好評に気を良くして、続いて次のパンフレットを作るように、松井さんにお願いをした。
カラー写真とか天然色映画とかが出現して、観光先進地である熱海や箱根の旅館ではカラー印刷のパンフレットを使い始めていた。
笹屋でもカラー印刷のパンフレットを一応、検討してみたものの、予算的に、無理だと分って、ちょっと、がっかりしたのだが、松井さんは「よし、オレに任せろ」と云って、東京へ帰っていった。
サイズが一廻り大きくなった「笹屋ホテル」の第二作目のパンフレットが松井さんから届けられてきた時、私たちは「あっ」と声を上げた。カラー写真だと思ったのである。
笹屋名物の玄関前の藤棚の藤の花房を、若い芸者さん二人がポーズを作って見上げている表紙だったが、実に奇麗な色彩でびっくりしたのである。
松井さんは横浜や軽井沢などで、外人客に「おみやげ」で売っている「日本の風景」の絵葉書が自然写真に彩色したものであると、知っていて、その技法を取り入れて「色付き」のパンフレットを作ったのである。
そして、パンフレットを広げると、笹屋ホテルの「全景」が「鳥瞰図」になっていて、見事に展開していたのである。
(筆者は千曲市戸倉在住で77歳。著書に「竹迷和尚遺聞」=大本山永平寺祖山傘松会発行=など)
『松井政平さんの事』<1>(08年8月10日付)
松井さんに初めてお会いしたのは昭和27(1952)年である。私は20才。戸倉温泉は笹屋ホテルの番頭見習であった。フロント係と云う「かっこいい」呼び名はまだ使われていなかった。笹屋ホテルの御主人は「旦那さん」奥様は「お上さん」と呼ばれていた。
旦那さんの坂井修一氏は八光電気製作所を経営していたので、工場へ行くと「社長さん」と呼ばれていた。
笹屋ホテルは戸倉温泉の開祖の旧家であり、資産家だったので町の人たちに敬愛され、親しみをこめて「旦那さん」とか「社長さん」と呼ぶ人が多かった。 笹屋ホテルは「信州の迎賓館」「天下の笹屋」と云われており、お泊まりになるお客様も立派な方ばかりであった。
その笹屋ホテルの玄関に、ある日突然一人の中年の男が現れて「おーい、カサイ居るか」と大声で叫んでいたのである。
個人の家ならともかく笹屋の玄関で大声で叫んでも旦那さんたちの住んでいる奥の部屋へ声が届くわけはないのに随分、変なお客さんだと私は思ったのである。
お帳場さん〈支配人〉の坂井治さんが出て行って、そのお客様に御挨拶をし、応接間へ御案内した。当時は玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き変えてるのが当り前だったのだ。
「あのお客様はどなた様ですか」と私はお帳場さんに聞いた。
「あぁ、あの方は読売新聞の松井さんと云って旦那さんの上田中学の同級生だよ」とお帳場さんは教えてくれた。
松井さんは旦那さんに頼まれて笹屋のパンフレットを作るために、東京から打合せに来てくれたのである。
昭和27年頃、「パンフレット」とか「カタログ」と云う言葉は旅館では使われていなかった。旅館の案内図を用意している旅館も信州では少なかったと思う。白黒写真の玄関、客室、お風呂場などの絵葉書があればいい方だった。
(「たかはし たみを」氏は戸倉在住。77歳。本名「橋民夫」)
『井上靖先生の事』<7>(08年8月3日付)
私が平成四年の「残暑見舞い」の葉書に、井上先生にサインしていたゞいた詩を印刷して友人知己の方々にお送りしたところ、当時の上山田町町長山崎尚夫氏が井上先生の愛読者であって、上山田町内に井上先生の文学碑を建立したいと提案。
上山田温泉の観光協会長であった清風園の正村謙吉社長とお二人で東京の井上家を訪問して、ふみ夫人の御了解をいただき、「井上靖文学碑」を平成五年七月十八日、上山田温泉の中央公園に建立されたのである。
ふみ夫人は、除幕式典にわざわざ御来泉されたのだが、私は当日どうしても仕事の関係で式典に参列できなかったし、ふみ夫人にお目にかかれなかった。
文学碑に刻まれた井上先生の詩は、私の本の表紙裏に万年筆でサインされたのを拡大したものである。
潮が満ちて来るやうなそんな充(み)たし方で私は私の人生を何ものかで充たしたい 井上 靖
ふり返ってみれば、井上先生とゆっくりお話したのは昭和二十九年の早春の一夜だけである。
不思議なのは、奥様だと思っていた女人の顔をどうしても思い出せないのである。
あの頃は、映画女優の誰彼(ダレカレ)さんに似ているなどと云い合って覚えていたものだが―すらりとした足の綺麗な人だったと記憶してるのに顔が浮かんで来ないのである。
いずれ私も近い中に、あの世へ行って、井上先生とその女人にお会いするわけだけど、井上先生は、「やあ、君か」と手を上げてくださるのではないかと―この頃しきりに思うのである。 〈了〉
『井上靖先生の事』<6>(08年7月20日付)
井上先生がお亡くなりになったのは平成三年一月二十九日である。
そして平成五年五月五日白神喜美子さんが「花過ぎ井上靖覚え書」を出版された。
昭和二十一年井上靖氏三八歳、白神喜美子さん三三歳、サンデー毎日の上司と部下の関係から始まり、昭和三十六年に終止符を打った男と女の記録である。
この本は井上先生の名誉を傷つけたと非難の声も高かったとお聞きしているが―。
私は白神さんこそ昭和二十九年三月二十日に笹屋ホテルに御一緒にお見えになり、私が「奥様」と思いこんでいた方であったと感じたのである。
この本の中で白神さんは、「ふみ夫人」は「おみ足」が悪かったと書かれている。笹屋で私がお会いした「奥様」は、すらりとした足の美しい方であった。
昭和二十三年上京した白神さんは生活費を得る為に五反田にあったダンスホール「カサブランカ」でダンサーをしていたとも書いておられる。
私は、ちょうど旧制中学四年生で学校をサボって渋谷の不良学生グループと遊び廻っていた頃で「カサブランカ」へも何度か顔を出した思い出がある。
白神さんにお手紙を差し上げ確認したいと思っていたのに「花過ぎ」の作者は間もなく世を去られてしまった。
『井上靖先生の事』<5>(08年7月10日付)
先生は新聞記者時代の習性と気になさらないが、御自分の眼と足で調査、取材をキチンとなされるのが基本姿勢であり、私の本にサインしていただいたものの中に、「正確なものは美しい」と書かれたものもある。
その次にお会いしたのは、昭和五十九年頃じゃなかったかと思う。 私のメモや日記を調べればあるいは書いてあるかもしれないが、酔っていたので書いてないかもしれないし―女神湖ホテルの東京案内所長をしていた時期だったと思う。
東京の鰻の老舗「竹葉亭」の若旦那、別府竜氏と夜の銀座のバーやクラブをハシゴしていた時である。竜さんの「知ってる女の子」がいるクラブ「タウリスク」へ行ったのである。
「タウリスクって珍しい名前ですネ」と私が聞くと竜さんが「井上靖さんが命名したんだってよ。中国の揚子江沿岸だかに、たくさんある柳だってさ」と教えてくれた。
それからちょっと声をひそめて「ママさんがネ、井上先生の愛人だって噂だよ」と、ニヤっと笑って見せた。
「偉い人とか有名人は大へんだネ、お店の名前を考えてあげただけでも、パトロンだとかスポンサーだって直ぐきめつけられるんだから」。
そんな話をしながらお店へ入って、竜さんの知ってる女の子」を指名して席へ案内されると―その奥のテーブルに、なんと、井上靖先生が二、三人のお客様と座っていらっしゃったのである。
もうこの頃は、芸術院会員であり、文化勲章受賞者であり、日本の知性を代表する大文豪であり、大先生になっておられて―私のような宿屋の番頭なんかが、うっかりお側へ近寄れない存在になっておられたのである。
それでも私は、酔った勢いもあり、懐しかったので先生の席へ突進して行って、「先生、戸倉温泉の笹屋の高橋でーす」と御挨拶申し上げたのである。 先生は、ちょっとびっくりされて私の顔を見て「やあ君か」とおっしゃった。 私は嬉しくなって、「先生、奥様お元気ですか」なんて叫んで握手してきたのである。
バーカウンターの椅子に、その頃映画やテレビの脇役で活躍していた戸浦六宏氏が一人で飲んでいて、「井上先生のお知り合いですか」なんて声をかけてくれたのを覚えている。
『番頭一代』の作者「たかはし たみを」氏は本名「橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。
『井上靖先生の事』<4>(08年7月6日付)
その時、初めて井上先生が声を発した。
「そうですかー そりゃあいい」と私には聞こえた。そして先生は「ははは」と声を立て、奥様もつられて「あらあらーおほほほ」と一緒にお笑いになった。
「普通大てい、『猟銃』とか『闘牛』と云う方が多いのよ」と、奥様がおっしゃったので、私は失言したのかと思い、「もちろん俺だって、『猟銃』好きです。読んでます」と早口で訂正した。「『流転』を褒められたのは、あなたが初めてだ」と、井上先生がボソボソおっしゃられた。
おかしな出会いであり、一風変った楽しい時間だった。やはり後で分ったのだが、この時は「風林火山」の調査、取材であったらしい。
その後も先生は「氷壁」の取材とか、新聞社や出版社の講演会などで信州へお見えになり、「笹屋」へお泊りになられている。 「伊那の白梅」とか「姨捨」など、幾つかの信州を舞台にした優れた短篇も書かれている。
二度目に私がお会いしたのは、昭和三十年か三十一年の春である。
私は交通公社の上田案内所のお手伝いをして修学旅行の添乗員として、伊勢、奈良、京都の名所旧跡を廻って歩いていたのだが、偶然、唐招提寺の境内で井上先生をお見かけしたのである。
井上先生は、法衣姿のお坊さんや背広姿の五、六人の人達に囲まれて、建物を見ながら説明をうけられていたのである。
高校生の案内はバスガイドさんにお任せして、私は井上先生に近づいて行き、「先生、しばらくでした」と声をかけたのだが、先生は交通公社の紺のダブルの制服を着てJTBと金文字の入った腕章をしている私を分らなかったらしい。
黙って返事もされず、視線も合わさないで一団となって移動してゆくので、私は追いかけて行って、「先生、信州戸倉温泉の笹屋の高橋でーす」と大きな声で挨拶をすると、漸く立ち止まって「やあ、君か」と手を上げてくださった。
そして、まじまじと私を見つめて「分らなかったよ」とつぶやき、「ゆっくり話もしていられない」と、また手を振って歩き出された。
この時は「天平の甍(イラカ)」の取材で唐招提寺に来られていたのである。
『井上靖先生の事』<3>(08年6月15日付)
「流転」の作者が井上先生と知ったのは、もちろん先生が芥川賞をもらって、その経歴などが新聞雑誌に出たので分かったのである。
井上先生御夫妻は仮のお部屋でお休みになり、朝食を召し上られてから、タクシーを呼んで川中島古戦場方面へお出かけになった。
私は、先生にサインをしていたゞこうと思って、温泉町に一軒しかない光明堂書店へ行って先生の本を二、三冊見つけてきたのである。
井上先生御夫妻は、お夕食の時お銚子二本をお空けになり、食後にコーヒーを注文なされた。
今から思うと嘘みたいな話だが、当時、コーヒーを注文されるお客様は殆んどなかったし、注文されてもコーヒーをお出し出来る旅館は何軒もなかったのである。
戸倉上山田の温泉街に喫茶店が開店したのは、昭和二十九年も秋頃ではなかったかと思う。
お部屋係のお姐さんを通してサインをお願いしておいたので、夕食後お部屋へお伺いすると、井上先生御夫妻は丹前に羽織のくつろいだ姿で炬燵にあたっておられた。
余計な事だが、炬燵も電気炬燵ではなくて炭火の頃である。
本を奥様にお渡しすると「あなたは井上のどの小説がお好きですか」と質問された。
私が「流転です」と答えると、奥様は一瞬「は」と息を飲みこまれた。「流転ですか…、流転のどこがお好きなんですか」。奥様はちょっとあわてて重ねておたずねになった。
「昔、流行った歌があったでしょ。男生命を三すじの糸にって云うのが」私が、おっかぶせるように云いかけると、奥様は益々お困りになってうろたえた様子で先生の方をふり返った。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住)
『井上靖先生の事』<2>(08年6月8日付)
当時の私には、落着いて本を読む時間は無かったが、それでも芥川賞、直木賞には関心があって読んでいたので「闘牛」と「猟銃」は知っていた。
そしてそれ以前に戦前昭和十一年に「サンデー毎日」の懸賞小説に当選した「流転」を読んでいて、三味線杵屋新二郎とおしの、お秋の物語は私の大好きな小説の一つであった。戦前映画化されて、その映画の主題歌を人気歌手の上原敏が歌っていたのを、私は知っていたのである。
幼稚園へ通っていた二子玉川の頃で、隣の電気屋の小母さんが私の事を子供のように可愛がってくれて、映画を見に連れて行ってくれたり、手廻しのポータブル蓄音機で「流転」のレコードをかけていたので、その歌を知っていたのである。
『井上靖先生の事』<1>(08年6月1日付)
私が井上先生に初めてお目にかかったのは、昭和二九年の三月二十日の土曜日である。
有楽町の交通公社から、その夜、(笹屋ホテルに)予約の入っていたお二人のお客様が朝早くお着きになったのである。「夜行列車で長野駅へ着いたんだけど、寒くてかなわないので温泉(戸倉温泉)へ直行した」のだと、女の方が云い訳されていたと、お迎えに出た者が私に伝えてくれた。
突然のお着きなので取り敢えずお休みいただくお部屋を御用意する間、応接間でお待ちいたゞいていたのだが、私が御挨拶にお伺いすると、ダークグレイのダブルの背広の中年の紳士と明るいグレイのスーツの似合う若い御夫人であった。
第一印象で洗練された都会的な雰囲気の御夫人だなと私は思った。 その時二十三歳の生意気盛りの私の率直な感想を申し上げると、お叱りをうけるかもしれないが、男性の方はちょっと右肩を落して左手を背広のポケットに突込み、左足を半歩位前に出して、私に対して斜めに構えて立っていた。
同じ背広姿でも公務員とか銀行マン、学校の先生と違い、お固い職業ではなく、何となくどこか崩れた感じのする人だと私は思ったものである。
後でお聞きしたところ、学生時代柔道をやっていたので自然にファイテングポーズや組み手の姿勢になるのだと、照れながら弁解されていた。
お部屋係の女の子が「お客様は、この方です」と、雑誌のグラビアページを持ってきたので、「どれどれ」と手に取ると「芥川賞作家井上靖氏」と大きなタイトルで確かにお客様が写っていたのである。
番頭一代「早春雑記』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号は「定詮」。戸倉在住で77歳。
愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。 著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行。
『早春雑記』<10>(08年5月4日付)
「番頭一代」に書きたいことは、たくさんあるのですが、まだ昭和三十年代でモタモタしています。今まで書いたのも訂正加筆しなければいけないのもあります。
幸田露伴翁の後妻さん八代さんのこと、笹屋ホテルの設計をした遠藤新先生と志賀直哉の関係「婦人之友」。正木不如丘先生と竹久夢二についてなど、書きかけている題材がいっぱいあって気になっているのです。
坂井修一氏の「伝記」が平成十七年秋、八光グループから出版されました。写真をふんだんに使った立派な本です。
八光電機製作所の創業者としての百年の歩みを精確に記述しておりますが―私にすれば旅館の親父さん、笹屋の旦那さんとしての描写が少なくて淋しく思いました。
昭和二十七年から四十二年まで笹屋の旦那さんの身近にお仕えした者として、旅館業界・観光事業のリーダーとしての一面を書き残しておきたいと思っております。
旅館の親父さん、お上さんの仕事とは家業を愛しその土地を愛し、伝統や歴史を大切にして地道に守り伝えてゆくのが使命なのだと―教えられたと、私は思っています。
東京は烈しく冷たい雨でしたが軽井沢は二月二十六日に相応しい雪景色でした。私は車内販売で買った「峠の釜めし」をブラ下げて、上田駅で降りました。
ほんとうに短くて忙しい一泊二日の東京行でした。〈終〉
『番頭一代』の作者「たかはし たみを」氏は本名「橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。 日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。 著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行。
『早春雑記』<9>(08年4月27日付)
雨の中を歩き廻ったので、私の靴も靴下もズボンの裾もビショ濡れになっているので、私は須見大佐のお墓に最敬礼をして、護国寺から地下鉄に乗りました。
お天気だったら「茗荷谷」の林泉寺へも寄るつもりでいたのですが、諦めました。
林泉寺は大岡政談の「縛られ地蔵」で有名なお寺で、先代の住職江田和雄氏は私と世田谷中学の同期であり、戦後、世田谷の豪徳寺で一緒に修行をした仲間なのです。
江田のことは、また別に書かなくてはいけないのですが、彼は禅宗の坊さんとしては異色の活躍をした人物です。
実験演劇集団を結成し劇団「人間座」を主宰して昭和三十年代、前衛的な演劇運動の旗手でした。天井桟敷の寺山修司氏は人間座で劇団運営のノウハウを勉強した一人なのです。
また林泉寺には茶道石州流の家元のお墓があり、江田は石州流林泉寺派の名誉家元として茶禅一如を提唱し実行していたものです。
奈良慈光院で開かれた石州流の全国大会に出席し、お手前を披露している時に脳硬塞で倒れ、東大病院へ緊急入院したのですが、平成十二年七十歳で世を去りました。
『早春雑記』<8>(08年4月20日付)
三楽荘さんが「皆さんの意見と云うか、疑問を聞いたので質問するから正直に答えてくれ」と、切り出されて「何故、不公平な割当をするのか」「高橋クン個人の好き勝手な行動か」、「旅館の好き嫌い」、「偏っている」、「リベートをもらってるんじゃないか」と次々に「不愉快」な質問と云うより詰問されてる感じでした。
私は、アタマへ来て、席を蹴って帰ってこようかと思うくらいでしたが―ともかく、知っている点は素直に返事をしてきました。
二、三日して、また三楽荘さんから電話があり出かけてゆきますと、今度は三楽荘さんお一人で女将さんの木村さんが「お抹茶」を立ててくださって、美味しいお菓子もありました。
「いやあ、先日は悪かったなア。旅館の連中の話と高橋君の返答を聞いて、あちこち問合せしてみたら、高橋君の云ってる方が正解だったようだ。済まなかったな」と率直にお詫びをされて、私はすっかり恐縮してしまいました。
日本観光協会連盟戸倉上山田地区連絡会と云う受入れ団体があり、清風園の飯島社長が会長をしていて、私は、その実務を担当しているだけなのだから、国鉄や日本交通公社、日本旅行会、近畿日本ツーリスト、東急観光、名鉄観光、全日本観光(後の東武トラベル)など大手の旅行業者からの団体客の受入れを、私一人の判断や権限で勝手に扱えるわけがないと云うのは、誰が考えても判るはずなのですが―若僧の私の生意気な態度が問題を大きくしてしまったのかもしれないと―反省したものです。
おのれの勲功を求めず信念を曲げず、部下の犠牲を最小限にくい止めようとして軍の上層部に直言した「須見新一郎連隊長」は偉大なる大人物であると、私は理解したのです。
が、いざこの清廉潔白、古武士のような武人の等身大の実像を正しく伝えようと書くのは―私には難しい、荷の重い仕事だと思うようになり、お話をお聞きし、「資料」をいただきながら書けないでいるのを、ほんとうに申し訳なく思っているのです。
『早春雑記』<7>(08年4月13日付)
須見大佐は当時のソ連、満洲国境の実情を理解掌握していない大本営参謀の机上の作戦に反対され、意見を具申されていたのですが通らなかったらしいのです。
大本営の作戦参謀の一人、瀬島龍三氏はシベリアに抑留され復員してから、伊藤忠商事の社長となり、財界のリーダーになり、中曽根首相のブレーンになった大物です。
が、司馬さんはこの瀬島氏に接触し、取材をし耳を傾けたらしいのですが、それが須見さんの御機嫌を損ねてしまったのです。
戦後、参議院議員になり大本営参謀から「華麗な転進」をして話題になった辻政信氏も「瀬島も辻も同じ穴のムジナ。同罪だ」と須見さんは一刀両断にしていたようです。
私は笹屋ホテルの坂井修一氏が戸倉温泉旅館組合長時代、副組合長として会合に出席される三楽荘の御主人に御挨拶をし、私の悪友の上月館の四男坊西沢幸雄氏を岡谷の中央運送大井家に婿入りさせた御仲人としての須見新一郎氏を尊敬していたのですが、「軍人」としての実績を知らなかったのです。
昭和二十七年から三十七年までの十年間、私は笹屋ホテルの副支配人として、戸倉上山田温泉に国鉄の臨時列車で入ってくる大口団体〈年間五万人位〉の受入れについて、宿泊旅館の割当などを任されておりましたので、「思い上がった」ところがあり「独断専行」、「我まま勝手」など、いろいろ「悪い評判」が立っておりました。
広告宣伝費、交際接待費など、私が自由に使える金額も昭和三〇年代で年間五、六百万円はあったでしょうか…。
毎晩のように芸者さんを連れ歩き、飲み歩いて温泉のバーや小料理屋さんのハシゴをして派手に遊んでいると、思われていました。
そんなある日、三楽荘さんから電話があり、呼び出されましたので、あわてて三楽荘へお伺いすると、笹屋ホテルの近くの都屋さん、玉屋さん、戸倉ホテルさんも来ていました。
『早春雑記』<6>(08年3月23日付)
鳩山一郎家や講談社野間一族などの錚々たる名門名家のお墓が立ち並ぶ中、私がお詣りに行ったのは「須見新一郎」氏のお墓です。
須見新一郎氏を御存知の方は少ないかもしれませんが「ノモンハン事件」の生き残りの連隊長です、と申し上げると関心と興味を示される方は多いのです。
私は戸倉温泉の三楽荘旅館の御主人として存じ上げていたのですが「軍人」さんとしての須見さんは知らなかったのです。ノモンハン事件の時、私は小学校二年生ですから知らないのが当り前なのかもしれません。
私の母校世田谷中学の大先輩である作家の伊藤桂一さんが直木賞を受賞した「悲しき戦記」も映画やテレビになり、大ヒットした五味川純平氏の「人間の条件」もノモンハン事件を背景にした小説であると知ったのも、「三楽荘」の御主人が当事者であり貴重な生き証人であると判ったのも、つい最近のことなのです。
「遡行」の同人である金児弘道さんに教えていただいたのが本当の話なのです。私がよく知らなくて、いい加減な話をしていたら、「半藤一利さんのノモンハンの夏をお読みになれば詳しく書かれています」とアドバイスをいただいたのです。
三楽荘さんは旅館を廃業されてその敷地は現在、駐車場になっているのですが、幸い須見さんの御次男武さんが東京と上山田温泉に事務所を持っていて不動産関係のお仕事をしていらっしゃるので、お電話をして、お話をお伺いしたのですが、あの司馬遼太郎さんが「須見新一郎大佐」を書く予定で二回も取材に来られたのだそうです。
が、須見大佐は司馬さんの執筆の姿勢に疑問を抱き、書くことを許されなかったらしいのです。
(筆者・橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳)
『早春雑記』<5>(08年3月16日付)
私が「笹屋ホテル」に勤めていた時、越前永平寺へお詣りする檀信徒の方々、麻布十番の商店街の人達を引率して何回かお泊りいただいたお得意様であります。
昭和三十七年に斎藤史先生が「原型歌人会」を始められた時、私は会員として参加させていただきましたが、お仲間の方から史先生と「二・二六事件」の関係をお聞きしました。
毎年、「二・二六事件の法要」が賢崇寺で行なわれ、史先生が出席されると知りまして、「賢崇寺の和尚さんは、私の中学の時の恩師です」と申し上げたところ、先生はとてもお喜びになって「有難う、有難う」と私の両手を握りしめてお辞儀をされるので私はびっくりしてしまいました。
私にとって、神様みたいな存在の史先生が、あんなに喜んでくださったのは、もちろん最初で最後、ただ一度の事ですが、私にとって忘れられない出来事でした。
「今度、先生が賢崇寺にいらっしゃる時、私もお供して行きます。藤田先生にもお会いしたいので」なんて、私は調子良く云ったのですが、結局史先生がお元気な時、私はお供して行きませんでした。
その約束が気になっていたので二月二十六日朝、真直ぐ「賢崇寺」の「二十二烈士の墓」にお詣りしてきました。
大学の先生の講演があり法要があるとのお話でしたが、お寺へも主催者の「佛心会」の受付にも顔を出さずお寺を後にしました。
冷たい烈しい雨の中を、私が次に訪ねたのは音羽の護国寺でした。都内でも屈指の名刹なので、堂塔伽藍は見事なものですが、本堂裏手の墓苑も広く整然としておりました。
(筆者・橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。著書に「竹迷和尚遺聞」等)
『早春雑記』<4>(08年3月9日付)
夕方、JRの「びゅうプラザ長野」で予約しておいた東上野のビジネスホテルにチェックインしました。昔は駅前旅館だったと思われる名前の三階建の小さな建物で、朝食付九〇〇〇円の料金です。
夕食は、江戸前の鰻が食べたくて浅草の「前川」か池の端の「伊豆栄」のどちらかに行こうと思ってフロントの人に聞いたら、「伊豆栄」の方が近いですと教えられ、池の端に行きました。
昔、「笹屋ホテル」に東京から一流の板前さんを派遣してくれていた「上又包技会」の会長黒岩さんのお店「花屋」が池の端にありました。
小じんまりしたお店でしたが、季節の美味しい日本料理を食べさせてくれたものです。黒岩さんのお嬢さんは、かの有名な「パルコ」の増田さんの奥さんになっていると聞いたのを思いだしながら、池の端から東上野までブラブラ歩きました。
翌日二月二十六日は、相憎く朝から烈しい雨降りでした。
麻布十番の「賢崇寺」の「二・二六事件七十一回法要」に参列するつもりでしたが、「雨と寒さ」に予定を変更して早く信州へ帰ることにしました。
賢崇寺の先々代、昭和十一年当時の御住職藤田俊訓老師は私の旧制世田谷中学校時代の恩師です。教頭さんで、「修身」を教えていただきました。
藤田先生は戦後、駒沢大学の学監になり佛教学部と文学部しかなかった駒沢大学を、現在のような総合大学に発展させた基礎を造られた方であります。
(番頭一代『早春雑記』の作者「たかはしたみを」氏は、本名・橋民夫。千曲市戸倉在住で77歳。日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟会員等)
『早春雑記』<3>(08年3月2日付)
私の毋方の従妹の菊ちゃんが嫁いだ福島市の「猪俣家」の息子が洋子さんとコンビの作曲家猪俣公章氏であったり、あれこれ面白い話がいっぱいあるのですが―これはまた別に書きます。
その次に電話をかけて訪ねようとしたのは旧制世田谷中学時代の同級生伊藤文学氏の所でしたが、ここは留守番電話になっていて連がりませんでした。
彼は出版会社第二書房を経営していましたが「薔薇族」と云う「ゲイ」とか「ホモ」とか「おかま」など、同性愛の人たちの月刊誌の編集長として、白眼視されていた人達の「市民権」を得る運動を展開し、最盛期には三万五千部位の部数の新誌にして、美輪明宏、古賀政男、木下恵介、淀川長治氏など著名な芸術家をスポンサーにして、新宿にクラブ「祭」、下北沢に茶房「薔薇の小部屋」をオープンして、活動していました。
外人観光客が、わざわざ訪ねて来る、閉ざされた世界では国際的に有名なお店でした。その彼が一昨年暮れに「倒産」したとニュースで伝えられたのです。
新潟の弥彦神社の境内地に美術館とフランス料理のレストランを開業したのが、つまづきの原因と聞いています。電話では「ガンバレよ」と話をしたのですが、直接会って、激励したかったのですが―会えませんでした。
(筆者「たかはし たみを」 氏は本名「橋民夫」。)
『早春雑記』<2>(08年2月24日付)
会議の予約と下見に幹事さん達は出かけて行きましたが、私は久しぶりの上京なので、あちらこちら顔を出したい所があるので失礼をして、単独行動をとりました。
私は予定を立てて時間を約束するのが嫌いで、事前に会う約束をしない主義なので、この日も不意に訪問する訳で、「山口洋子」の妹に電話をして「洋子先生の都合はどうですか」と聞いたところ、「誰にも会いたくない」と、やんわりと断られてしまいました。
山口洋子と私は簡単に云うと「従妹」同士なんですが、ちょっと複雑な「従妹」なのです。
彼女の育ての親の「山口きぬ」さんは私の父の異母弟丹羽宗一氏の内縁の妻なのです。洋子さんのお母さんは父の異母妹で、その頃名古屋市栄にあった有名な料亭「楽々」に勤めていて、店の御主人の白滝氏との間に生まれたのが洋子さんでお母さんはその後、京都の日本画家に嫁ぎ、妹の多恵子さんを生んだのです。
山口きぬさんは姫路市の人で「芸者さん」をしていて、お座敷で丹羽宗一氏と知りあったのです。洋子さんを引き取って育ててくれた「おきぬさん」を洋子さんは、本当の母よりも大切に盡していたと私の母はよく感心しておりました。
洋子さんは名古屋の高校を卒業して東映のニューフェイスになりました。山城新伍や佐久間良子さんと同期です。女優の時はパッとしませんでしたが銀座の「姫」のママになってから流行歌の作詞家として、また直木賞作家となって昭和三十年代、いつも華やかな話題に包まれていました。
数年前から難病奇病に取りつかれて表舞台から姿を消して、駒沢公園近くの家と、夏は軽井沢、冬はハワイの別荘で闘病生活を過しているのですが、私が彼女の昔からの、いろいろの噂を知っているものですから私を敬遠していて、会いたがらないのです。
(筆者・橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。著書に「竹迷和尚遺聞」=大本山永平寺祖山傘松会発行=。ほかに歌集・句集を発行)
『早春雑記』<1>(08年2月17日付)
平成十八年になったと思っていたら、あっと云う間に四月が終わろうとしています。年をとると歳月の流れが迅く感じられるのでしょうか。 二月十六日私は一泊二日で「日赤上山田病院」へ入院しました。貧血症状があって精密検査を受ける必要があったのです。
病院のベッドにひっくり返って、いろいろ考えていましたら六十年前の昭和二十年二月十七日は東京にアメリカ海軍の航空母艦から発進した戦闘機のグラマンが白昼攻撃をしてきた日だと気がつきました。
当時、私の家は、今の駒沢オリンピック記念公園の近くにありました。塀に沿って咲き盛っていた白梅の花片を散らし、艦載機の機銃掃射の銃弾が撃ちこまれていました。
我が家のお勝手の屋根を貫き「米びつ」の中に銃弾がころがっていました。幸い、我が家でも隣近所でも負傷した人はいませんでしたが、まさかと思っていた白昼の空襲で超低空で侵入して来たアメリカ軍機の飛行兵の顔が見えた恐怖の一瞬でした。
非戦闘員の東京都民のショックは大変なものでした。私が中学一年生でしたが―それから六十年経って二月十七日と云う思い出したくない悪夢のような日付けに「骨髄検査」を受けるのは、あまり楽しいものではありませんでした。
精密検査は二週間後にドクターから説明があるので、ともかく退院し何もなかったような顔をして普通の生活に戻りました。
二月二十五日の土曜日は小学校時代の「同窓会」の幹事会があるので上京しました。世田谷区の用賀に「京西小学校」があります。明治の元勲の伊藤博文公が書いた「京西」の額がある古い学校です。昭和二十年前後十二年間の卒業生の親睦団体があり、二年に一度、「同窓会」を開いているのです。
京西小学校の会議室に十人の幹事が集まって打合せをし、「五月二十七日に開催」が決まりました。
番頭一代「早春雑記』の作者「たかはし たみを」氏は本名「高橋民夫」、号は「定詮」。戸倉在住で77歳。
愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長などを歴任した。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。昨年4月、「喜寿」を記念して短歌作品集「獅子座流星群」を出版。今年1月には「清風園 女神湖ホテル物語」(昭和44年夏〜昭和52年秋)を出版しました。
番頭一代『早春雑記』は、評論誌「遡行」(2006・127号)に掲載された作品。作者の了解を得て更埴新聞に転載します。
『料理人さん達』<7>(08年2月10日付)
戦前からの「笹屋ホテル」の調理師さんである「高橋淳司」さんは、左足が不自由だったので兵役にはつかなかったが、男の子が三人居てそれぞれ四年制の大学に進学させたので、一時期経済的には大へんな御苦労をなさったと思う。
奥さんの「ゆう」さんも、旅館の「ゆかた」を縫ったり、ルーム係をして子供さん達の学資を捻出された。
その御苦労が実って三人のお子さんは立派に成人され、長男は小学校の教頭先生、次男、三男は双生児だが、一人は地元の町役場の課長職を歴任して議会事務局長に、一人は上田市にある東京商工リサーチの営業所長として活躍されていた。
もともと高橋家は新潟県松之山温泉で「床院」と称する「庄屋」さんの家柄であると聞く。
奥さんの「ゆう」さんは埼玉県の出身だが、惜しくも数年前に他界されてしまったが、淳司氏は長男御夫婦とお孫さん達と共に暮し、悠々自適の余生を楽しんでおられる。
小林家と高橋家を見ていると、番頭より料理人さんの方が「手に職のある技術者」なので、堅実で豊かな生活設計が出来たのかなと羨ましく思うことがある。
ちなみに私は娘二人、それぞれ専門学校を出て嫁に行き、我が家は古女房と二人だけの淋しい生活である。〈了〉
『料理人さん達』<6>(08年2月3日付)
上山田の調理師会の宮内勘治氏〈元・信州観光ホテル、戸倉パークホテル調理長〉とコンビで更埴地方の自治体、公民館などに依頼されて「料理の講習会」の講師として活躍した。
昭和四十年代、私が蓼科の女神湖ホテルの支配人をしている時、夏の繁忙期になると親会社の清風園からヘルプとして応援に上ってきてくれて、腕をふるってくれたのだが「料理の原材料の仕入れや仕込み」に永年の経験を生かして、食材を無駄にしない仕事をして、前年対比で原価率を半分位にして清風園の社長や経理担当重役を驚かせたものである。
もう一人、戦前からの調理師さんは「高橋淳司」さんである。大正七年生れの当時八十歳であった。
「笹屋ホテル」の洋食のコックさんとして旅館料理の中の洋皿を担当。専門家としてトンカツや海老フライ、鶏のモモ焼位しか並ばなかったその頃の献立の中で、いつも一歩先を行くポークジンジャーやハンバーグなどを提供して、お客様に喜ばれていた。
「笹屋ホテル」が外人観光客を受入れる日本旅館として自信を持って対応出来たのも、本格的な洋食のコックさんである高橋氏がいたからだと云えば少し褒めすぎになるだろうか。
笹屋ホテルが県内の旅館として初めて館内の「ホームバー」を開設した時、高橋氏は東京銀座のバーへカクテルなどを習いに行き、バーテンダーの資格をとり、洋食の仕事を済ませた後で、バーの営業を担当していた。
ビールが好き、話好き、カラオケで唄うのも得意だったのでお客様に人気があり、バーはいつも賑やかだった。
『番頭一代』の作者「たかはし たみを」氏は本名「橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。 著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。
『料理人さん達』<5>(08年1月27日付)
上又包技会の三羽烏と云われたのは、箱根塔之沢の環翠桜の中沢氏、田園調布の料亭「大国」の本橋氏と成島氏の三人で宮内庁関係のお祝い行事があると、宮中にお手伝いに参上する名誉ある料理人であった。
成島さんは「柏市豊四季二二二番地」に住んでいたので、詳しい経歴をお聞きしたいと思って柏市の電話帳で成島姓を探したら「豊四季」に一軒だけあったので、厚面しくお電話したところ、「同姓ではあるが、成島米光さんのお家は引越してしまって、連絡先は分らない」と、おっしゃっていた。「群馬県の安中に住んでいる」と聞いたと云うので「安中」の電話帳を調べてもらったが、「成島姓」はなかった。
確か、日大の工学部へ通っていた息子さんが居たはずなので、引続き探してみたいと思っている。
「笹屋ホテル」をやめた後は、千葉県野田市の醤油屋さんの「迎賓館」のような所で腕を振るっていたと聞いたのだが、それももう数十年も前の話である。
今みたいなグルメブームでテレビや雑誌に料理がひんぱんに取上げられ、板前さんがタレントになりスターになっているのを見ると、成島さんも「料理の名人」として、取材されたり出演したんじゃないかと思う。
ただ、和食が「トリフュ」「フォアグラ」「キャビア」などを使うのを見て、成島さんは「何て云うかな」と思ったり、「どんな料理を作ってくれるだろうか」と考えて見るのは楽しいことである。
成島さんが来る前から「笹屋ホテル」には戦前から勤めていた「料理人」さんがいたのである。
一人は「小林博」さん。
大正三年六月六日生れ、長野市浅川の出身で「生家は、昔は村長さんをやっていた家柄」だと、自慢していた。西長野の「松本屋」魚屋さん、仕出し屋さんで修業をし、「笹屋ホテル」へ入ってのは、昭和十五、六年頃だろうか…。「笹屋ホテル」へ鶏肉を納めていた「成田鶏肉屋」御主人夫妻の仲人で更級郡村上村網掛の「大井トシ」さんと結婚〈トシさんは平成八年一月十六日、七十七歳で歿〉。
戦争中、海軍に応召されて霞ヶ浦航空隊の厨房に勤務。復員後、「笹屋ホテル」に復職、「笹屋ホテル」を六十歳で停年退職後、清風園に入社。七十歳で退社し、平成七年十月六日八十歳で逝去。長男の功一氏は信大工学部を出て上田の山洋電気の中堅技術者として勤務、次男の大二氏は、県職員として活躍されている。女の子が一人居たが近くへお嫁に行っている。
「笹屋ホテル」時代は料理の他に、毎年七夕祭の飾りものなどを作ったり、お酒が入ると朗らかになり「向う横丁のタバコ屋の可愛いカンバン娘」など唄って踊って、珍妙な芸を披露して人気があった。
『料理人さん達』<4>(08年1月20日付)
大相模の横綱安芸の海が銀座に出していた「安芸」と云う料理屋の板前さんになった矢代氏、その弟さんは「笹屋ホテル」へ修行に来ている間に戸倉温泉の芸妓置屋さんの娘さんと結婚をして、長い間、上山田戸倉温泉芸寮協同組合の専務理事として活躍し地元の名士になった。
上田から中学を卒業して「笹屋ホテル」へ勤めた山口氏は、成島氏の下で修行をし腕を磨く為に、東京の白雲閣や鬼怒川温泉ホテルなどで職人さんとして勤めてきた。 現在、息子さんと上田市内で「食事処山口」を経営しているが、更埴調理師協会の専務理事として地元の業界のまとめ役になっていた。
その山口氏の弟さんも同じように中学校卒業後、「笹屋ホテル」へ来て、東京などへ修行に行き、現在は上田市内で「科野」と云う店を開いている。
他にも名前を忘れてしまった若い人たちが何人かいるし、別所温泉の花屋ホテルの調理長になった佐藤氏〈故人〉とか上田の若菜館の上田原店主の山下氏とか、成島さんに預けられた料理人さんも何人かいる。
若くて威勢が良くてキップのいゝ料理人さんがキビキビと体を動かしていると、自然に活気も出てくるし、料理も「いき」がいい。そんな時代だった。
成島さんは、上田の萬花亭とか長野駅前松屋などにも教えに行っていたし、地元の上山田の調理師組合の若林会長〈当時は清風園の常務、調理部長〉と、毎晩のようにマージャンをしながら交際を深め、料理の講習会の講師をつとめて、温泉全体の料理のレベルアップに大いに貢献したものである。
「笹屋」に成島さんを連れてきたのは上又包技会の会長の黒岩荒江氏であった。黒岩氏の奥さんの妹さんが、成島さんの奥さんで義弟であると聞いていました。
黒岩氏はその頃、上野池の端で花家と云う料理店の経営をしていて繁昌していた。中肉中背、小肥りで、黒い太い縁の眼鏡をかけていて、親しみのある気さくな人柄であった。
私が子供の頃から世話になっていた東京の竹葉亭〈江戸時代から続く鰻の老舗〉の三代目別府得三氏が「黒岩氏は若い頃、店で働いていたけど、その頃から腕はあんまり良くなかったけど、人の面倒見がよくて、仲間の人達に小銭を貸したり、仕事の世話をしたりしてちょっとした兄貴分だったよ」と語っていた。
成島氏の事も知っていて「田舎に置いといちゃもったいないよ。ウチへ連れてきたいね」なんて羨しがっていたものだ。
(筆者・橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。著書に「竹迷和尚遺聞」=大本山永平寺祖山傘松会発行=など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行)されてきていた。
『料理人さん達』<3>(08年1月13日付)
成島さんの休みの日に、同じ材料の「鮪の刺身」を他の人からやはり一切れもらって食べてみたら、生臭くて食べる気がしなかったのである。
二人の料理人さんの違いは使っている包丁だけだから、その包丁の研ぎ方、切り方で「まぐろ」の味が変わるものだろうかと思ったものである。
後で専門家の意見を聞いたら「その頃は木の俎板を使っていたから、魚をおろした後、包丁で『俎板』をよくしごいて水を流せば臭味はある程度消える」と云うのだ。
「極端に云えば、一切れ切る度に包丁でマナ板をしごき水を流せば、魚の匂いはつかない」と云うのだ。まあそれは無理としても、それだけ丁寧に仕事をしていたのだと私は納得したものである。
「料理を美味しく食べていたゞくには、五十人が限界です。温かいものを温かい中に召し上がっていたゞく、冷たいものを冷たい中に召し上がっていたゞくには、時間的な制約がある」と、いつも云っていた。
「刺身でも、早くから切っておくのはダメ、お客様がお着きになって、御人数が確定してから仕事をする」、「料亭と違うから一品づつ運ぶのは無理としても、宴会が始まる前からお膳に料理を並べておくのはとんでもない事だ」と云っていた。
基本に忠実な頑固な職人気質と云ってしまえばそれまでだが、妥協をしないスジの通った考え方をする人だったと―後になって私は理解したものである。
昔は料理専門学校なども、地方にはなかったので、料理の修業をする人は、老舗とか名店に預けられ、そこの板前さんに仕込まれ技術を習得して家業を継ぐなり独立するのが唯一のコースであった。
成島さんの下には、東京の上又包技会を通して全国各地方から修業にやってきた人が多勢いる。
私は昭和四三年に笹屋をやめたので、成島さんが笹屋にいつまでいたのか分らないが、昭和四五、六年頃まで居たとすれば、約二〇年間になる。
私が覚えているだけでも、盛岡市大清水多賀本店の細川氏、北上市の加藤氏、柏市で「リバーストーン」と云うレストランを経営するようになった早川氏、松倉氏、新海弘助氏、秩父の料理屋さんのお婿さんに入った本多氏、ハワイの日本領事館に勤めていた杉本氏など派遣されてきていた。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住)
『料理人さん達』<2>(08年1月1日付)
後任の板前さんはそうした関係もあって、長岡から来るのかと思われていたり、地元の調理師会でも「笹屋ホテル」の板前さんになりたい人は何人かいたので、東京から超一流の職人さんが来ると云うニュースは、大きな反響を呼んでいたのである。
東京には幾つかの調理師さんの団体があり、「笹屋ホテル」の御主人はその中でも有力な「上又(じょうまた)包技会」に相談をして、板前さんを廻してもらう事になったのである。
「今度『笹屋』へ来る板前さんの給料は、長野県知事の給料と同じだって云うぞ」と、そんな噂が温泉街に流れたくらい話題になっていたのである。当時の知事の給料が幾らなのか正確には誰も知らないのに、無責任な噂話が面白おかしく流されるのである。
東京から来た板前さんは「成島米光(なりしまよねみつ)」氏であった。年令は四〇代後半か五〇代初め、スラリとした長身で色が白く、ちょっと見ると料理人さんより学校の先生と云うタイプであった。
ソフトを「あみだ」にかぶり、ソフトと同系統の薄いグレーの背広姿だった。ネクタイは何色だったかは覚えていない。
女性的な甲高い声で「成島です」と挨拶をして、お上さんやお帳場さんと話をしていたが、「ヘイ、ヘイ」と短くてきぱきと答えている言葉使いが、江戸っ子らしい歯切れの良さを感じさせた。
当時の一流の板前さんの多くは、枠で金廻りがよかったので「飲む、打つ、買う」の、どれか一つの道楽を持っているのが通り相場だった。
成島さんの場合は「マージャン」の名手で「賭けマージャン」でも食っていけると噂されていた。酒は飲めなかったが、男っ振りがよくて金廻りがよければ女の人の方で放っておかない。女の人にはよくもてたようで、行く先々に彼女が居たとなどと云う話も伝わってきていた。長野にも居たと云う話だが真偽は分らない。
「笹屋ホテル」には単身赴任だったので、別館の客室の一つを使って寝起きしていた。毎日三時のお八ツに生の和菓子を用意して、「笹屋」では特別待遇であり神経を使っていた。
私は見習い番頭だったので、成島さんと献立の打合せをする立場でなかったし、成島さんの作った料理を試食する機会もなかった。
「笹屋ホテル」の料理だけでなく他の旅館の料理も食べた経験がないのだから、成島さんの料理がうまいとか、まずいとか判断する基準をもっていなかった。
お客様のお話をお聞きしてみると「盛付が綺麗、芸術的である、食い味がいゝ」と答えが返ってくる。食器の選び方にしろ盛付にしろ、成島さんの仕事は実にスマートで上品なのである。
私が不思議だなと感心したのは成島さんの「鮪の刺身」を一切れもらって食べた時、全然生臭くなかったのである。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住)
『料理人さん達』<1>(07年12月16日付)
昭和二七年(一九五二)、私が「笹屋ホテル」の見習い番頭になった年は、いま振り返ってみると「もく星号事件」があり「皇居前広場の血のメーデー」があり「君の名は」ブームがあり、皇太子殿下(今上天皇)の立太子礼が行われた年でもある。
戸倉上山田温泉にとっては戦後の善光寺参詣をメインにした団体観光旅行が本格的にスタートした年であり、関西から団体臨時列車が運転されて東京、日光を経由して、いわゆる「忠臣蔵コース」が復活。京都の大野木秀次郎参議院議員の後援会「秀岳会」五千人が一週間にわたって温泉に入ってきた記念すべき年なのである。
戸倉上山田温泉は、この団体臨時列車の受け入れによって、東日本有数の温泉観光地として有名になり、戦後の発展の基礎を作ったのである。
「笹屋ホテル」は昭和二六年に施行された戦後日本の二大目標となった「文化国家」と「観光立国」の国家理念を実現する為の「ホテル整備法」によって、外国人観光客の宿泊に適応した日本旅館を選定する「政府登録国際観光旅館」制度が発足し、いちはやく、その指定を受けた。
そうした世の中の動きと関係があったのかどうか、今となっては当事者からお聞き出来ないのが残念だが―板前さんが代わったのも、この年である。
それまでの板前さんは新潟県長岡市出身の「大川さん」で、この人は金縁眼鏡をかけ鼻下にチョビ髭をたくわえた、なかなかの紳士であった。私の第一印象は「チャップリンみたい」だなと思ったものである。
大川さんを紹介してくださったのは、これも私の推測になるのだが、長岡市の料理旅館「岡善」の女将さんではないか、と思うのである。
「岡善」の跡取息子さんが「笹屋ホテル」の調理場を手伝っていた時、松代町出身のお部屋係登美子さんと結婚して家業を継いでいたので、笹屋では「岡善」さんを窓口にして、お部屋係の娘さん達を募集して、長岡市や近郊の町村から多数の従業員を迎えていたのである。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住)
『番頭一代』<7>(07年12月9日付)
こういう「はったり」のない誠実な人柄だったので、女神湖ホテルのお料理も地味ではあるが、内容の濃い玄人(くろうと)好きのする献立であった。120席のレストランがあり、松花堂風のお弁当をお出ししたのだが、これには信州の季節の味がボリュームたっぷりつまっていたのである。
鮎の塩焼きや煮びたしが1匹まるごとつけられているので、私は原価がかかりすぎるからと心配になって「半分にしてください」と逆のお願いをしたものだ。
夕食も朝食も食堂で、当時流行りのバイキングをしていたが「鯉の洗い」「馬刺し」「蜂の子」「蝗(いなご)の佃煮」「鮒の甘露煮」などユニークな品々が並んでいた。
ただ面白いもので、若いカップルやニューファミリーのお客様が主流だったので「ボイルした馬鈴薯(ジャガイモ)にバターをつけた」ものとか「玉蜀黍(トウモロコシ)の茹でたの」や生野菜がよく売れた。
六本木にあった「ラインゴールド」で修業してきた栗原英雄君がシェフで来てくれたので、あの頃の蓼科の山の中としては、なかなか凝ったメニューであったと自惚れていたのだが―商売としては、支配人の私の力不足で結局うまくいかなかったのは残念である。
その後、私は女神湖ホテルの経営が東京の会社に替わったので、神田や内幸町の事務所に勤めてオーナーの小林実氏のお供をして「文芸春秋」の「東京いい店うまい店」に出ている多くの老舗に連れて行ってもらったり、子供の時から出入りしていた「竹葉亭」の別府得三氏とご子息の竜氏、大阪ロイヤルホテル店の汀子さんに随分いろんなお店でご馳走になった。
ふりかえってみると、宿屋の番頭の私が身分不相応なお料理を食べられたのは、不思議なご縁で繋っていた、多くの方々のお蔭なのである。
昭和一桁生まれで食べるものも「ろく」にない時代に育ったので、ご飯と味噌汁とお新香が美味しければ、他には何にもいらないという方だが、年をとったら余計にビーフステーキなどは敬遠するようになり、「蕎麦」や「懐石料理」、女房のこしらえてくれる田舎風の煮ものなどが、おいしいと思う今日この頃である。〈了〉
『番頭一代』の作者「たかはし たみを」氏は本名「橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。
日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行。

『番頭一代』<6>(07年12月2日付)
フランス語学者の山本直文先生にお近づきになれたのも、私のその後の食べ歩きに大きなプラスであった。
フランス料理のシェフのほとんどが山本先生の翻訳した本で勉強していたからだ。先生が日本経済新聞に掲載された「食味ノート」に私が言い出した「そばグラタン」を試食した折の様子などが書かれている。
先生の軽井沢のお宅へお邪魔した時、出されたコーヒーがまことに軽くておいしいので、お尋ねすると「酵素を入れるんだ」とおっしゃった。私がコックと発音すると「コックじゃなくて、クックです」と笑って訂正された先生が懐かしい。
また、多田鉄之助先生は「笹屋ホテル」に時々お泊まりいただいていたお得意様のお1人であった。その頃は夏場にお客様が少なかったので、何かイベントをやろうと考えて、7月の巴里祭にちなんで、シャンソン歌手を連れてきてパーティーをしたらどうかと私が提案し、多田先生が「巴里会」の幹事をしていらっしゃるとお聞きしたので、お見えになった時、厚かましくご相談に乗っていただいたのである。
それがきっかけで、先生が考案して登録されていた「寿多美菜(スタミナ)鍋」を笹屋ホテルで使ってもよいとお許しをいただいたのだが、実際には巴里祭のパーティーもお料理も予算が無くてやらなかったように記憶している。
私が笹屋ホテルをやめ、蓼科高原の女神湖ホテルのオープンにともない、支配人として赴任したのは昭和44年の秋である。
当時の清風園の社長飯島安雄氏、その後社長を務められた正村謙吉氏のお引き立てによるものである。私はちょうど38歳、ホテルも身体も小さかったが、夢だけは大きかった。1万坪の敷地があるので、営業成績が良ければ増築できる可能性があり、ファイトを燃やしたものだ。
清風園の当時の調理部長・若林政夫氏は、長野県の調理師会長を長く務められて、日本調理師会の副会長の現職で亡くなられたのだが、本当によく出来た立派な方であった。
県の調理師会長になってからでも、会議や冠婚葬祭に出席するのに50tのバイクに乗って長野県内のどこへでもとんで行ったし、365日、毎朝、若い衆よりも早く出て来て調理場の床をモップで磨いていたのだ。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。)
『番頭一代』<5>(07年11月25日付)
六本木「香妃園」から招いた宮本さんは1〜2年で東京へ引き上げ、「八重洲大飯店」のオープンにタッチし、その後、三好興産が中国料理を手がけるので大阪へ移り「青冥」(ちんみん)グループの総帥として、今や年商20億の名経営者になっている。宮本さんのお料理を食べたいというファンがいても、今はもう食べられないのだ。 私が宮本さんの作ってくれたお料理の中で一番うまかったのは、本格的な中国料理ではなくて、なんと「オムレツ」なのである。
このオムレツは乾焼明蝦(カンショウミンシャ)や蝦仁(シャレン)を煮込んだ「チリソース」が入っている、あの赤くて辛い「たれ」で作るのである。お客様が海老を食べてしまった後の「たれ」でいいのである。メニューにはないけど、どこかのお店で取り上げれば、たちまち人気商品になると思うけど、内緒にしといた方がいいのかもしれない。
私は八重洲大飯店がオープンした時、「笹屋ホテル」から派遣されて両方から給料をもらっていたので、中国料理を勉強する大義名分もあって、都内の有名店を食べ歩いた。
なんとなく図々しくなって「留園」や「山王飯店」に1人で入っていって、当時の価格で1、000円位の什景湯麺(スーチンタンメン)を食べて来られるようになった。
「笹屋ホテル」にいた間で特に印象に残っているのは、皇太子殿下(現今上陛下)をお迎えした時のお料理だ。何しろ何をお出ししたらいいのか分からないので、軽井沢プリンスホテルの神津千代さんをお訪ねして、ご教示をいただいた。だが、お泊まりになられた殿下が何よりお喜びになられたのは意外や意外「朝月」であった。「鯉こく」や「河鹿」もお召し上がりになられたが、姨捨あたりで掘ってきた野生の「朝月」に信州味噌を添えただけのものが、大層お気に召されて「東宮御所で植えたいから」との仰せで、ご接待役の長野県知事西沢権一郎氏はいたく恐縮されたものである。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。)
『番頭一代』<4>(07年11月11日・18日付)
温泉旅館の4大要素は@立地―ロケーション A施設―建物・庭園、大浴室など Bサービス Cお料理―である。この中でも、最近は料理の比重が高くなってきている。
世は挙げてグルメ時代なのだ。私は昔から料理に力を入れている旦那さんやお内儀さん、今ならば社長さんや経営者の下で番頭をさせてもらってきた。
料理に熱心な経営者と、腕のいい板前さんとのコンビが最高であるが、これが理屈で分かっていても、なかなか難しい。職人気質の頑固で、へそ曲りで天邪鬼の板前さんが、昔は確かにいたのだ。
私が戸倉の「笹屋ホテル」でお目にかかったのが、東京の上又包技会から来ていた成島米光さんである。今になってみると、あれだけの職人さんにはもう二度と会えない。名人であったと感嘆久しくしているが、ともかく気難しかった。
お客様の人数が確定してから刺身を切り始めるので、団体さんの宴会はいつも間に合わない。お叱りをうけるのは係の女中さんと番頭である。
「温かい料理は温かい中に。冷たいものは冷たい中にって言ったって、50人以上はどだい無理な話だよ」ととりつくしまもない。
成島さんの素晴らしかったのは、刺身が生臭くないのである。食い味がいいのである。盛付けが鮮やかなのである。料理は芸術であるとの説を、私はこの人を知って初めて納得したものだ。
昭和39年に「笹屋ホテル」は増改築をした。ご主人の坂井修一氏は「笹屋ホテル」の新しい売物として中国料理を取り入れ、当時、東京で有名な六本木「香妃園」から宮本和夫氏を招いたのである。
宮本さんはコック、ウェイター、ウェイトレス10人ほどのメンバーで信州へ来てくれたわけだが、長野県で初めての本格的中国料理は、業界にもお客様にも私たちにも、カルチャーショックを与えてくれた。
「杏苑」と名付けられたこの店は、現在も「笹屋ホテル」の2階で営業しているが、内容は北京から四川に変わっている。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。)
『番頭一代』<3>(07年11月4日付)
この数十年前の「6・3・1」という計算方法をあてはめてみると、1万円の宿泊料の材料費は2、000円である。2、000円の材料費で前記の夕食と朝食バイキングを作るのは、実に大へんだとお思いになりませんか。
旅館の料理が日本料理古来の定型を守りながら継承されてきたのは、お客様の好みの変化に応じて洋皿を加えたり、中華風の1品をお出ししたりして、時代の流れに逆らわず、然も本来の姿を残してお膳や食器など、大袈裟にいえばすぐれた日本文化を現代に活かしてきた功績は大きいのである。
修学旅行や会社の慰安旅行で初めて日本旅館へ泊まり、初めてお膳で日本料理を食べた人は多い筈だ。そして日本料理の魅力にとりつかれて、だんだん高級料亭など専門店へ行くようになる。
私は仕事の関係で、和食、洋食、中華の厨房に入れたし、お料理の下ごしらえから出来上がるまでの仕事っぷりをじっくり観察できた。その上で、日本料理が一番贅沢で繊細だと信じている。
私が戸倉の「笹屋ホテル」にお世話になった昭和26年頃の信州の温泉地では、自分の家に料理人がいなくて、お料理は仕出し屋さんから取るのが普通だった。
自炊とか半自炊(味噌汁とお新香は旅館で用意する)で、お部屋だけお貸しして長期間滞在する湯治客がお得意さんであった。旅館に内湯のあるのも珍しくて、お風呂は町の中の外湯へ入りに行くのである。
滞在客は、ふだんは一汁一菜の手料理だが、子供や孫や家の者が訪ねて来たり、親戚の人や友人・知人が遊びにくると、「今夜は松のお料理をお願い。明日は竹にしておくれ」なんて注文をして、仕出し屋さんから取り寄せたものだ。
仕出し屋さんも、魚屋さんが兼業していて、刺身でも焼魚でも実質的な料金であった。こうした合理的な営業形態から温泉旅館は発展して現在のスタイルになり、温泉街の飲み屋さん、射的屋さん、おみやげ屋さんはさびれてしまって、温泉街そのものがつまらなくなってしまった。
(橋民夫氏は千曲市戸倉在住で77歳。)
『番頭一代』<2>(07年10月28日付)
旅館料理はご承知のように、伝統的な正統派の日本料理なのである。試みに、私が数十年前に勤めていた上山田温泉の清風園の忘・新年会プランの献立を記してみると、@先付 Aお吸物 B口代り C焼物 D造り E酢の物 F鉢物 G鍋物 H蒸し物 I小付 J洋皿 K止椀 Lお新香 Mフルーツ、これにご丁寧に食前酒のワインがついているのである。
そして、朝は和洋中30種類もの料理が並ぶ食べ放題のバイキング。これで宿泊料は1泊2食税金サービス料込みのお1人1万円なのであった。
ある夏、私は大町市の「くろよんロイヤルホテル」にある「吉兆」さんを覗いてみたら、「岩魚」の塩焼きが「9、500円」であった。この9、500円は税金サービス料別であるから、らくに1万円は超える料金である。天下の「吉兆」さんと比較するのは無茶であり、おかしいかもしれないが、私が強調したいのは、旅館の料理がいかに安いかという事実である。
暁方の4時に起きて、板前さんは25キロ離れた長野市の市場へ仕入れに行く。決められた宿泊料の大枠の中で、良い材料を仕入れ、お客様に喜んでいただけるお献立を考え、精魂こめて作っているのである。
今は旅館同士の競争が激しいので、仕入れ原価、材料費も個々の旅館によって違うし、企業秘密に属するので、はっきりできないけど、私が番頭になった頃、先輩のお帳場さん―今ならさしずめ支配人―に教えてもらったのが、6・3・1の数字である。
これは、宿泊料を分解すると6が部屋代、3が夕食代、1が朝食代で、もちろん売値だから夜と朝の食事料金4の半分が料理の原価であると聞いた。
この数十年前の計算方法をあてはめてみると、1万円の宿泊料の材料費は2、000円である。
(橋民夫氏は戸倉在住で77歳。笹屋ホテル、ホテル清風園などに勤務)
『番頭一代』<1>(07年10月21日付)
私が信州戸倉・上山田温泉の「笹屋ホテル」に転がり込んで、そこの番頭になったのは昭和26年であるから、もう60年近く前のことである。見かけは華やかな温泉旅館の裏方として半生を過ごした愚かな男の、これはため息みたいな繰り言である。
その頃、信越線戸倉駅前へ行くと、旅館の名前を染め抜いた紺の法被を着て、禿(ち)びた湯下駄を素足につっかけて各々の旅館の旗を持った男たちがお客様を迎えに出ていたものだが、二十(はたち)そこそこの若僧は私一人であった。
酸いも甘いも噛みわけ、人生の裏表を知りつくしているような顔をした初老の番頭さんが、ひどく慇懃丁重に腰をかがめ、変に身のこなしの軽い足取りでお客様の荷物を運んだりしていたものだ。
先輩の番頭さんの一人は「宿屋の番頭なんて、いい若いもんのする事じゃないよ。昔から馬鹿番頭って言ってさ、碌なもんじゃない。バカ、バントウ、バクロウ、バクチウチ、バーテン、バイニン、バイシュンフってバの字のつく稼業は、どれもこれも やくざ なもんだよ」と、にやりと笑って見せたものだ。
また、他の1人は「コック45野垂れ死に、ボーイ100までテーブル乞食って言うんだぞ」と戯れ歌を教えてくれた。
若かった私には、そんな人たちの忠告がさっぱりぴんと来なかった。今頃になって「3度目の成人式だ」なんて無理してみても、心身共に衰えて冬場になると鼻水をすすり上げながら、黒の蝶ネクタイに首を締められ、食堂のテーブルを拭いたり、絨毯に掃除機をかけたりしていたかつての自分に気がつくと、50数年前に聞いた番頭さんたちのぼやきが、ずしんと胸にこたえてならないのである。
そこへ行くと「包丁1本晒(さらし)に巻いて…」と唱われる板前さん稼業は、やっぱり昔から恰好よかったし、粋だったし、それでいて手に職のある、まともな固い技術屋さんだからと、芸者さんや女中さんにもてたものである。
行きがあって帰りがない。三拍子揃いすぎちゃって「よた前とか、へた前ってェのは多いけど、板前さんて呼べるのは少ないねぇ」なんて嘆きもたまには聞こえてくる。
「だけど、昔に比べると、れっきとした国家試験を通った調理師さんになっちゃって、サラリーマン根性になっちゃって、面白くないねぇ。いっぱしの職人てぇのはー」なんて寿司屋やおでんやのカウンターでご高説ではなくて、“おだ”をあげてる醉客の本音もあるにはある。
その気持ちも分かるけどいまの旅館の板前さんは、先ず第一に原価計算がしっかりしていなくては勤まらないのである。
『番頭一代』の作者「たかはし たみを」氏は本名「橋民夫」、号「定詮」。千曲市戸倉在住で77歳。愛知県出身。昭和23年、東京世田谷中学(旧制)修了。同26年戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」勤務後、女神湖ホテル、戸倉パークホテル、上山田ホテル、ホテル清風園で支配人など、竹葉亭大阪ロイヤルホテル店長など。 日本歌人クラブ会員ほか長野県歌人連盟、長野県俳人協会、全国良寛会、評論誌「遡行」などの各会員。短歌「象(しょう)」同人。
著書に「竹迷和尚遺聞」(大本山永平寺祖山傘松会発行)など。「獅子座流星群」など歌集・句集を発行。